BARおくすり店長日記

BARおくすりの店長が日常思ったことを書きます。

感想文/【特別対談】蓮實重彦×千葉雅也と『動きすぎてはいけない』(途中)

 

文藝春季号掲載の千葉雅也と蓮實重彦の対談を読んだ。感想など書く。

蓮實重彦という人は物事の切り分けがとてもうまいと思った。引く線に迷いがないから安心して委ねていられる。

今ぼくは『動きすぎてはいけない』という本を読んでいる。流し読むだけでは内容が入ってこないんだけど、つい流し読んでしまうような哲学の本だ。専門用語が頻繁に出てくるのにその用語について大ざっぱにしか理解していないから、というよりイメージでしか捉えていないから、わかるようなわからないような読みになっている。読んでいない人に「要約して」と言われても困ってしまう。要約が苦手なのは元々そうで、この本が特別というわけではないけれどいつもより余計に困ってしまうような気がする。

それから、この本を読んでも新しい考えが自分のなかに入ってくる感覚はない。感じでいうと「そうなのかなるほど」ではなく「ああそういうあれね」という感じ。たとえば「非意味的切断」という言葉は知らなかったけど、それが指す内容は知っていたと感じる。関係ないけど、シニフィアンシニフィエがややこしいとこの言葉が出てくるたびに毎回おもう。

「〈動きすぎてはいけない〉を警句としてとらえる向き」という蓮實の言葉にドキッとさせられた。ぼくはもろそのタイプだったから。ドゥルーズを読んだことがない。デリダラカンも間接的に聞きかじったことがあるだけ。ポストモダンなんてのは胡散臭いイメージ。ポストポストモダンといわれると吹き出しそうになる。…なんて痛快な読者だと我が事ながら涙がでる。

非意味的切断の問題意識について、ぼくの過去問を引っぱり出すと、「さりげなさを追及するとさりげなくなくなる問題」「おしゃれにあるためにはおしゃれにならないようにおしゃれにする(?)」「爽やかな汗はなぜ爽やかなのか」あたりだろう。ああ、背伸びしても卑近。

しかし、日常生活でおもうことが思うことであり、日常生活で考えることが考えることだと蓮實が言っていたのには激励された。あの人は皮肉屋らしいので言葉をそのまま取ってもしょうがないのかもしれないけどそれは向こうにとってしょうがないことでもある。そのまま取られることにはなすすべもないはず。気の毒だけれど。しょうがない。

「と」問題は本当におもしろい。「と」マジでつよい。『よつばと』って漫画も最高おもしろいし。

「〜し。」っていうのも「と」と似ているなとふと思った。何が続くあてもないのに含ませる。

そして、改行。

楽しちゃいけないと思って普段は意識的に改行を封じているけど、改行は書くのが本当にやりやすくなる。これに慣れちゃうとこわいと思うからまた封印するけど。やりすぎてはいけないし。

対談を読んだ感想は、蓮實重彦のラスボス感ということに尽きる。シャープ・痛快を警戒する姿勢が愚鈍な者にはシャープさ・痛快さを感じさせる。ブレーキ性能がものすごく強調されていたらそれが何を意味するのか想像して戦慄するような感じ。現実にはただすごいブレーキが搭載されているだけかもしれないけど。

惹きつける力とつきはなす力は同じものだと思う。ぼくなんかはその強さを望んでしまう。刺激的な言葉遣いに憧れるところがある。起きているときはつねにそれを望んでいると言ってもいい。

一方で、ぼくは寝るのが好きだからいつもいつも起きていたいとは思えない。でもそういうあり方が結構バランス取れていていいんじゃないかと思う。眠たくなったりしながらもギンギンのときには熱いものを望む。熱いものを望んだりしながらも1日おきに眠たくなる。頭のいい人はみんな不眠症なんじゃないかと乱暴なことを思ったりする。

印象でいうと、千葉はそこそこ寝れなくなってそう。反対に蓮實はぐっすり寝てそう。そのへんがかえって蓮實のラスボス感を強くしている。毎日の睡眠が非意味的切断の日常的な実践だとして、蓮實はその達人だという気がする。きっとのび太くんのように2秒で寝てるはず。

ぼく自身は、寝るのは得意な方だけど2秒で寝れたことはおそらくまだないので、その域を目指してガンバッテいきたい。そのためには起きてるときに充分疲れることが肝要。そう考えると、自ら欲するところのものを欲して走り回るのが一石n鳥でいい感じ☆

とりま『動きすぎてはいけない』を読了したい。対談を読んだことで読むスピードがすこし上がったからよかった。本当、蓮實はばつぐんだ。

それにしても並行して読んでるダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』の読みやすいこと! 内容が勝手に流れこんでくる。

思ったんだけど、いまの哲学なんて本当に必要だろうか。ニーチェよりこっちの哲学はなくても別に構わないんじゃないか。彼らの言うことに「もっともだ」と思わさせられることはあっても心から感心するようなことはない。同じ哲学で呼ばれるものが、ニーチェより向こうのものが不当なほどキラキラしすぎていると思う。穏やかじゃない。

ぼくは穏やかじゃないものをもっと欲しているし、きちんと触れていない本物の哲学がまだまだあるから、まずはそれから勉強だなと、穏当な結論に至った。というよりそれらを勉強していないことがそもそも論外なんだけど、とにかく、穏当であることは大事なことだ。

ということで、ソポクレスの『オイディプス王』を一瞬で読んだ。死ぬほどおもしろかった。

ああ! 知っているということは、なんというおそろしいことであろうか――(テイレシアス)

 

 

オイディプス王 (岩波文庫)

オイディプス王 (岩波文庫)