「Inside Llewyn Davis」
好きすぎるものについては書けない、と誰かが書いたのを何かで読んだことがある。たしかにそういうものなのかもしれない。でも、好きすぎるものについて書かないでいて何を書くのか、とも思う。まあまあ好きなものについて?そんなのは馬鹿げている。
コーエン兄弟の新作映画「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」を見た。好きすぎるカテゴリに入った。だから無理をおしてこの映画について書く。
あらすじはとくにない。しいて言うなら「名もなきフォークソンガーの物語」ということになるだろうか。60年代のNYで、住処を持たず、友達の家を転転とする主人公ルーウィンの一週間かそこらを描いている。あちこちで悪態をつき、金が入用になればどこにでも無心に行き、その上誰彼かまわず軽蔑しているダメ男、それがルーウィンである。
コーエン兄弟映画の人物造形は特徴的だ。ほかのドラマ映画と比べて奥行きがない。登場人物はみな、見たままの人物で、「じつは・・・、」といった含みがない。発生する出来事も、どれも場当たり的というか因果関係に乏しく、唐突な印象を受ける。映画的リアリティからは一歩も二歩も離れていて、全体としては寓話めいた雰囲気だ。でもその雰囲気が僕は好きだ。
映画を見ていて、どこを見ればいいのかわからないということが昔よくあった。そのときはまだ映画が要求するリテラシーを持っていなかったんだと思う。でも正直に言うと、今でもどこを見ればいいのかわからなくなる画面はたまにある。画面だけじゃなく、繊細な心の機微についても、よくわからないと思うことがある。見たままではダメで、裏を読む必要があるというのがあんまりうまく理解できない。そういうのは立ち止まってならわかる。でも立ち止まるというのはリズムを乱される感じがして好きじゃない。コーエン兄弟の映画は画面がスッと入ってきてリズムを乱されない。
リズムに乗っているうちに、こっちで勝手に感情移入するというのがコーエン兄弟映画の特徴なんだと思う。それは僕にとっての「映画を見る」ということの理想像でもある。こう見ろという強要なしに、それでいてどこを見ればいいのかという逡巡もさせず、あくまでわかりやすく。
だけどわかりやすいというと、それをすぐに価値判断のレベルまで押し下げて、見るところをなくしてしまうパターンも多い。たとえば、主人公のルーウィンを「ダメ男」だと言ってしまうのは容易いし、ダメ男というパターンを作っておいて、それを逆転させることでカタルシスを得させようとするのも簡単だ。だからと言って、そういう簡単さを回避しようとして人物をこねくり回したりするのは面倒が増えるだけだ。そこは単に人物がいろんなことをする中で表れていくのがいい。映画に内面描写は必要ない。何のために画面があるのか。と、僕なんかは思う。
猫を探すのも、探すのをあきらめるのも、幸運にも見つけるのも、あっさり捨てるのも、ルーウィンという人物を表す契機になりうる。とってつけたような一貫性、とってつけたような因果関係はなくてもいい。べつに有ったってかまわないけれど、それがジャマになるならポイするべきだ。コーエン兄弟はそのへん躊躇いなくポイポイしている。彼らの映画が寓話めいているゆえんである。
読み取るべきメッセージがむき出しに、表面に表れている。見たままであるということが低俗だと感じるとすれば、かえってメッセージにとらわれている証拠だろう。何もかもが見たままでいいとどうして思えないのか。わかりやすくするためのサービスが下品だとなぜ思うのか。僕にはそのほうが不思議だ。
ルーウィンが遭遇するディスコミュニケーションの連続には思わず笑ってしまうし、皮肉交じりの台詞だけはあっさり素直に受け取られてコミュニケーションが成立してしまうのも可笑しい。
"Danny, your uncle's a bad man."
"Okay"
ままならない悲哀を歌に込めても取り出し口からは期待はずれのジュース。そのちぐはぐ感がクソいとおしい。