BARおくすり店長日記

BARおくすりの店長が日常思ったことを書きます。

絵になる絶望、絵にした絶望

 

5月は「ブルージャスミン」と「インサイドルーウィンデイヴィス」を見た。

ブルージャスミン」は元セレブの没落の様子、「インサイドルーウィンデイヴィス」は落ち目のフォークシンガーのツイていない様子をそれぞれ題材にしている。
以下、ネタバレを含みます。
 
この2つの映画は「ピークを過ぎた人間の悲喜劇」という共通点を持っている。ちがうのはブルージャスミン(以下BJ)は女性が主人公で、インサイドルーウィンデイヴィス(以下ILD)は男性が主人公というところだ。このちがいは映画の雰囲気にとって決定的なちがいである。ほかにも年代、環境などちがう点はいくらでもあるが、もっともちがいを生んでいるのが男女のちがいだと思った。BJの主人公ジャスミンはピーク時代を直接的に描かれている。BJではピーク時代のシーンと現在の落ちぶれたシーンとが交互に描かれるのだ。一方、ILDの主人公ルーウィンのピーク時代は間接的なやり方で描かれる。描かれるのは現在の落ちぶれたシーンだけで過去のピーク時代は描かれない。レコードのジャケット写真にその面影を見る程度だ。レコードのタイトルは「If We Had Wings」、かつてのデュオパートナー・マイクと二人で写る在りし日の笑顔がまぶしい。過去を神格化しているのはILDのほうである。BJは過去をはっきり写す。はっきり写された過去は輝かしくは見えない。むしろウディ・アレンのシニカルさのターゲットになっていて、俗悪に描かれている。この過去の捉え方に男女の立場のちがいが鮮明に見て取れる。本人の感じ方もそうだが、それを見る傍観者の受け取り方にも男女でちがいがあるように思う。女のほうが悲劇性が強いから、それを中和する喜劇性も強めないとしょうがないのではないかと僕なんかは思う。比べてみてもコメディ色が強いのはBJで、それにもかかわらず全体として暗い印象を受けるのもBJである。ILDは音楽をモチーフにしている点を差し引いてもより詩的で、心地いい感傷にひたれる。BJに劣らず絶望的な状況であっても暗くはない。希望が感じられるシーンはとくにないが、それでも絵になる。一方、BJには希望が見えるシーンが用意されている。チャンスをつかめるかどうかというドラマチックな見せ場がクライマックスを盛り上げる。希望が絶望に変わる、その悲劇で物語を飾り立てているのだが、本質はべつにある。もともとうまくいかない、そのうまくいかなさこそ絶望の正体であり、観客が見て楽しむ当のものなのである。女のうまくいかなさというのはそれだけでは絵にならない。悲惨すぎて正視に耐えないからだ。何かと要素を注ぎ足して希釈する必要がある。絵にする必要があるのだ。しかしウディ・アレンぐらいになると悲惨さを希釈させたりはせず、コメディティを高めたり、タイプのちがう女性との対比でキャラクターを引き立たせたり、希望という罠を用意したりして、観客の注意を引きつけたまま、見るに耐えないものを絵にするのだ。忘却だけが唯一の救いといううまくいかなさは相当の残酷物語である。漱石の『硝子戸の中』を思わせる。漱石は女に「時の流れにしたがって下れ」と心のうちでアドバイスをおくった。それに近いものがこの映画にもあった。それにしても忘却の瞬間を切り取るウディ・アレンのセンスには脱帽。過去を写しておいて歌は聴かせない、ブルームーンの使い方が絶妙。僕なんかは素直な性質なのでILDのほうが好きだが、意地悪なものが好みというひねくれた人にはBJはたまらないんだろうと思う。
このように比べてみるとILDはずいぶん牧歌的だなと思う。穏当で際立ったところのない、ほとんど無邪気ともいえる映画だ。思えばコーエン兄弟の映画はどれも無邪気だ。殺人さえ悪意でというよりなりゆきでおこなわれる。「ファーゴ」と「ノーカントリー」はその意味でも際立った作品だが、ILDでは殺人もおこなわれず、というよりほとんど何もおこなわれない。映画は2時間近くあるのだから何もおこなわれないわけはないのだが、おこなわれているという感触がないまま、なりゆきだけで事が進行していくので、印象としては何もおこなわれていないということになる。猫が可愛いとか、歌がいいとか、せいぜいその程度の断片的な印象に終始する。コーエン兄弟は因果関係というものに対してとくに冷淡で、それが如実に現れているのが「バーン・アフター・リーディング」や「シリアスマン」である。登場人物が何を考え、どう悩もうと、そんなの関係ない、結果に影響を及ぼせない。「トゥルー・グリット」なんかは比較的目的意識がはっきりしている部類に入るが、それにしても、同じ西部劇の「ジャンゴ」と比べてみるとなんとなくぼやけた印象を受ける。主人公の女の子はたまたま良い結果を出したが、そんなのはたまたま以上のものではないし、もっと大きな結果から見ると良い結果というのも疑問に思わざるをえないという終わり方だった。僕なんかはこういう因果関係への冷淡さは誠実な態度に思える。何に対する誠実さなのかと言われるとよくわからなくなるんだけど、没入感を持てないというか、没頭できない感覚、つねにズレてしまう感じ、必要以上の俯瞰、気づいてしまうこと、そういうものに留まってしまうあり方、それらに対しての誠実さ(のようなもの)だと仮にしておく。この留まってしまうあり方というのはまさにルーウィンのことだ。「If We Had Wings」とともに歌った相棒はすでに去ってしまって、ルーウィンは取り残されている。だからこそ、そんな彼が猫を置き去りにするシーンは痛切に胸に迫る。猫との道連れはなりゆきで、しょうがなく、そんなことはわかっていても、いや、わかるからこそ、あの無言でドアを閉めるシーンはどこまでも痛切なのだ。仕方がないことだからといって痛みが減るわけじゃない。だからといってどうもできない。猫にグッド・バイを言ってみてもしょうがない。
ところが、ラストシーンでルーウィンはそれを言うのだ。時代の寵児がまさにこれから登ろうとするその歌声をBGMにして、しょうがなくとはいえ自分が傷つけた女の亭主に、去っていく男にむかってグッド・バイを。なりゆきで、しょうがなく。
歌うにはほど遠い、ほとんど消え入りそうな捨て台詞、「au voir」(あばよ)。声がいろんな場面に重なって聞こえてくる。その重なりが詩情あふれる一幅の絵になる。ルーウィンの根無し草の境遇はたしかに悲惨だけれど全然見ていられる。今作ILDではコーエン兄弟はシニカルに走る必要がなかった。ルーウィンはなりゆきまかせに生きる主人公だったから冷淡さを発揮する必要もなかった。その結果、コーエン兄弟映画の中でも、もっとも無邪気で穏当な映画になったんじゃないかと思う。無邪気で穏当な中から浮かび上がってくる痛切さというのは、一生懸命叫ぶ必要もないから、その分自然に耳に入ってくる気がする。まさにフォークソングのように。
うまくいかないということに対してBJとILDは対照的なアプローチをとっている。当たり前のことだが、どっちが正しくてどっちが間違っているということはない。しかし、うまくいかないという事実を絵にするためにはアプローチを変えないといけないし、アプローチが変われば全然ちがうものになる。肝心の絵の完成度は置いておいて、僕が好きなのはインサイドルーウィンデイヴィスのほうだ。