BARおくすり店長日記

BARおくすりの店長が日常思ったことを書きます。

ヘルマン・ヘッセと私

 

ヘルマン・ヘッセは自分にとって特別な作家だ。

特別な作家というのは珍しいものではない。読んだことのある小説の著者は大体ほとんど特別な作家だと言っていい。それでもあえて特別な作家だというのは、ヘルマン・ヘッセこそ自分が物心ついてから初めて読んだ「文学」だったからだ。

ヘッセの小説はほとんど全部読んだ。大学一年の冬から二年の夏にかけてのことだ。それまでは文学なるものに触れることもなかったしよし触れたとしても何が何だかわかってなどいなかった。高校生の頃、本屋に平積みになっていた『海辺のカフカ』の文庫本を買って読んだりしたものの、意味がまったくわからなかった。

ヘッセはちがった。『幸福論』を読んでこんなにも物のわかった人がいたんだと思って衝撃だった。文学方面どうやら物凄いぞと、このとき直感した。ヘッセは自分にとっての文学の入口だった。その確信を得た作品が『デミアン』、ヘッセの作り出す「殻が破られるイメージ」が自分にぴったり重なった。絵に例えると、色と形があればそれで成立すると思っていたところに影を置くようなもので、見え方が全然ちがった。黄色いものはただ黄色いのではなく暗い部分もあるということがわかった。逆説的に光の場所を感じ取ることもできた。『デミアン』でいうと「殻を破ること」が必ずしも正義とされていないところに惹かれた。そうかといって悪なわけでもなく、ただ「殻を破ること」として描かれていた。そういう面白さがあるということ自体が新鮮な驚きだった。

ヘッセを読んでいた頃は「文学=ヘッセ」だった。だからヘッセのどの小説を読んでも「文学=ヘッセ」が感じられて幸福だった。相対化するための他の材料がなかったから完全だったし、ヘッセを感じたくてヘッセの小説を読むという目的=手段の完全さもあった。ヘッセの書いたものを読んでヘッセなるものを読み取るという宝物のような経験だった。必然だが同時に奇跡でもあるような時間だったと思う。過去が美化される傾向を差し引いても、びくともしないものがあった。

今はそういう完全な読書はできない。村上春樹もおもしろいし夏目漱石ドストエフスキーもおもしろいということを知っているからだ。自分の中にある文学の枠は大きく押し広げられた。さらに押し広げていきたいと思いこそすれ狭めたいとは思わない。もしあの頃の完全を取り戻せるとしてもそうしたいとはどうしても思えない。ただヘッセ=文学の時期が過去としてあったことは無しにできない。そういうことを考えるとき、過去・未来・現在が別々にあるというのはすばらしいものだと思う。一方で過去のことが思い出せなくなっていく不安も大きい。悪魔がやってきて過去を完全に手にさせてやる代わりにお前の未来をよこせと持ちかけてきたとして、シーソーが向こう側に傾いてもおかしくないなと思う。あとはおいしい話を信じるかどうか、新しく目にするものに期待できるかどうか、というところだろう。このあたりは表裏一体でもある気がするのできちんと考えた上で自分にとってもっとも都合のいい選択をするべきだと思う。

ヘッセの『車輪の下』は日本におけるヘッセの代表作だ。日本人の気質に合う話なんだと思うのは物事を簡単に思いすぎだろうか。二元論として捉えることがしやすい話でもあるので、そういう思考習慣を持つ人にも読みやすいというのは確かだと思う。勝ったか負けたかの上に判官贔屓が組み合わさって、元々の「芸術」のイメージを補強する。主人公のハンスは敗北するという美学の上に押しやられる。

しかしハンスは敗北してなどいない。

詩人にとって最高の勝利は酔って死ぬことである。

 古来、詩人というものは皆酔って死んできた。酒に酔ってでも自分に酔ってでもいい、とにかく酔って死ぬことこそが詩人最高の栄誉であった。酔生夢死の言葉の通り。

それにもかかわらずハンスの死が敗北として読まれるのは、最後の最後にいきなり登場した印象のあるくつ屋のおやじのせいだ。踏まれるための道具を作るおやじはハンスに同情することで俗世の良心を示す。この橋渡しはいかにもいい加減で、それだけにかえってヘッセの誠実を示しているようにも読める。ハンスの最大の勝利は誰にとってもの最大の勝利であってはならないのだ。ハンスの最大の勝利は敗北の色をしていなければならない。ハンスにとっても、ハンスの父親(ギーベンラート氏)にとっても。だから、取って付けたような反省の弁を述べさせる。この取って付け感はヘッセ自身の不本意さの表れのように見える。

 

もっとも多く愛するものは常に敗者であり悩まねばならぬ。

詩人になれないなら何にもなりたくはない。

ものになりそうだったのに、ものにならなかった。そんな悲しみは簡単に超越してしまう。ハンスにはかえってその方が良かったと万人が思ってはいけないはずなのに。これは倫理的にもそうだし詩的にもそうだ。ヘッセは倫理学者ではなく詩人だから詩的感覚を持って急ブレーキを踏んだのだと思う。なぜ急ブレーキになったのかということを考えると直前まで茫然としているヘッセの表情が読み取れるようでおもしろい。流れる景色に心を奪われて信号を見落としたのにちがいない。あるいは、信号は目に入っているのにブレーキを踏む気にならなかったのかもしれない。どうしてなのかわからないが、いかにも詩人らしい失敗だ。

 ハンスの死後、他者による見当外れの悲しみを描くヘッセは、当たり前だがハンスとは別のものだ。彼は明らかに何かものにしている。

とくに最後の一文、ハンスには逆立ちしても書けないものだ。詩人としての本性とは別のものがなければ書くのは不可能だ。しずかな池の水面の完全性、そこへ投じる一石。『車輪の下』を読むとヘッセは両方を同時に持っているのではないかと思われる。

ギーベンラート氏は、このひとときの静寂と、異様に苦しい、かずかずの物思いとから離れて、ためらいながらとほうにくれたように、暮し慣れた生活の谷間へ向って歩いた。

 

ちなみに、ヘッセの詩人としての本性がもっともよく発揮されているのは『知と愛』だと自分は思う。善悪二元論ならぬ善善二元論ともいうべき内容でまさに彼の詩人としての面目躍如だ。「言祝ぐ・賛美する」ということにかけてこれほど完成された小説は皆無といっていい。

 

 

知と愛 (新潮文庫)

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