BARおくすり店長日記

BARおくすりの店長が日常思ったことを書きます。

ディープなインプレッションであるところの絶望について

 

死に至る病 (岩波文庫)

死に至る病 (岩波文庫)

 

 

セーレン・キェルケゴールの「死に至る病」を読んだ。

 

ディープなインプレッションを受けた、ということで言葉的に精一杯という感じになってしまうんだけど、あえてそのインプレッションを引き伸ばしたり喩えたりこねくり回してみようと思う。

 

・「死に至る病とは絶望のことである」

絶望とはどういうことかということについて説明している。第二編では「絶望は罪である」とも言っているので、絶望=死に至る病=罪だということになる。ここで注意したいのは、キェルケゴールキリスト教という立場に立って論理を進めており、「罪」という概念と対になるのは「徳性」ではなく「信仰」であるということから、絶望を信仰と対置させているということ、そして絶望は死ではないということ、この二つである。僕にとっては、後者の絶望は死ではない、つまり死は絶望ではないということがなぜか腑に落ちてしまったことが驚愕だった。この世に自分自身の死ほどおそろしいものはないと思っていたのに、最近僕の概念バンクがパンクしそうなほどで、記憶力の衰えをはじめとしていろいろな身体的精神的衰退を感じていることもあってか、死よりこわいものを了解しつつある、その変遷の過程に触れたような気がして驚いた。死が具体的な影をあらわし始めたということかもしれない。ひとつひとつの影は細々とした形から成っていてそれに目を奪われるうちに概念そのものが見えない背景にまで退いた、そう捉えるとなんとなく筋も通りそうな気がする。

 

・絶望のいろいろな感じについて

絶望にはどういう感じの絶望があるのか、ということの説明をしている箇所が続いた。読んでてメモした部分を引用しながら要約してみようと思う。

 

可能性のなかに踏み迷うた者は向う見ずな絶望によって空高く舞上がるし、その人にとって一切が必然と化したところの[可能性を喪失した]者は萎縮した絶望のなかで現実に挫折する。――ところが俗物的な人間は[必然性をも可能性をももたないので]自己満足的に無精神性の勝利を祝うのである。

―『死に至る病』斉藤信治訳 岩波文庫 67p

 

 可能性の絶望、必然性の絶望とがある。どっちも絶望でひどいんだけど、それより無精神の絶望、こいつがひどい。自分が絶望しているということに無自覚で見るに耐えない、みたいなこと言っている章があって、上の引用がその結びになっている。

自分にはこの箇所がとくに痛切に感じられた。普通に読めば皮肉に読める文章だけど、もっと普通に(俗物性をもって)読めば、敗北者の負け惜しみの声に聞こえる。キリスト教というしっかりとした重力があれば、いや、信仰を持ちださないでも「自己満足」という言葉を適切に処理できる方向性を持っていれば、そんなふわふわした読み方にはならないはずなのだけど、自分にはこれを皮肉に読む読み方はできないし、この書き方にもそれを感じさせるところがある。可能性の絶望・必然性の絶望それぞれに言えることだけど、著者はそれらをたしかに絶望であり死に至る病であると断じていながらも、無精神性の絶望よりはマシだとすることでシンパシーを寄せているようにみえる。じゃあ無精神性の絶望こそ最低最悪のどうにもならないものなのかといえば、まあそうなんだけど勝利者だよね、おわってるのはおわってるけど。みたいな一筋縄ではない扱いに思える。これは変わった倫理感覚でどこか高いところがあるんじゃないかと思った。

 

絶望者は、自分がかくまでに地上的なるものを気にしているのは弱さのせいであり、そもそも絶望することが弱さのせいであることを、自分で理解している。ところが方向を正しく旋回して絶望から信仰に到達し、自分の弱さの故に神の前にへりくだることの代りに、そのような人間は絶望のなかに更に深入りして、自分の弱さに関して絶望するにいたるのである。これによって全視点が転換される。いまや絶望者は、自分が永遠的なるものについて、すなわち自己自身に関して、絶望しているのであること、自分は地上的なるものにあんなに大きな意味を賦与するほどに本当に弱い人間であったということ、に気づいている。ところがいまや絶望者にとってはまさしくそのことが、自分はもう永遠的なるものと自己自身とを失ってしまっているのだという事実を示す絶望的な表現となるのである。
―同101p

 

下の引用もそうだが、これなどは執拗に自問自答している感じがにじみ出ている。

 

ここに誰か彼の閉鎖性[の秘密]を与り知ることのできた人間がいたとして、その男がもし彼に、「それが実にお前の傲慢だ、お前は大体お前自身を誇りにしているのだ」といったとしても、おそらく彼は他人にはその通りだと告白しないであろう。もっとも彼が自分だけでひとりでいるときであれば、その言葉には確に何等かの真理が含まれているということを自分自身に対して認めることもあるかもしれない。けれども彼の自己が自分の弱さを把握したときの熱情がすぐに彼に、自分の弱さに絶望していることが傲慢でありうるはずがないではないかと思いこませることであろう、――自分の弱さをそのように並はずれて強調するそのことが実に傲慢にほかならないことに彼は気がつかない、弱さの意識が彼にとって耐えられないのはひとえに彼が自分の自己を誇りたいと希っているからだということに彼は気がつかない。誰かが彼にこういうとする、――「それは実に奇妙な錯綜だ、全く奇妙な結び目だ。一体不幸のすべてはもともとお前の思想がこんなにも錯綜しているその具合のなかに潜んでいるのだ。それにしても方向は別に間違っているわけではない、お前の歩むべき路はまさにこれなのだ、――自己への絶望を通じて自己自身へ。お前は無論弱い、これは全くお前の考えている通りだが、しかしお前はそのために絶望してはならないのだ。お前の自己は自己自身となるために破られなければならない。とにかく自己に絶望することをやめなさい。」――もし誰かが彼にこういうとしたら、彼はそれを熱情のない瞬間には理解するだろう。しかし熱情が再び直ちに彼の目を曇らせるであろう、かくて彼は再び方向を逆転して絶望のなかにはいりこんでゆくのである。  

―同106p

 

いつか「絶望するな。」と語りかけた小説家のことをその熱情とともに思い出させる。

 

彼は自己自身であろうと欲しないことを仕事として時間をすごしているのであるが、それでいてその自己自身を愛しているほどにすでに十分に自己なのである。これが閉鎖性とよばれる。

―同103p

 

自分は自己自身であろうとは欲しない。そもそも自己自身であろうと欲するということがどういうことなのか、よくわからない。欲するも欲しないも最初から最後まで自己は自己自身じゃないかと思うのはあまり精神的な考えではないのかな。自分は自分の自己自身であるということを誰かに証そうとは全く思わない。その必要がない環境にいたからなのか何なのか。

 

隠れているというこのことはたしかに何かしら精神的なものであり、いわば現実の背後にひとつの密室、全くの自分だけの世界、を確保するためのひとつの手段である、――この世界のなかで絶望せる自己はあたかもタンタロスのように休みなく自己自身であろうと欲するのである。 

 ―同121p

 

この箇所はダッシュで区切られる前半はよくわかり、後半はよくわからない。「秘すれば花」の秘するということ、仮面ということが世界を確保するのに役立つというのは科学的に証明されていると評しても過言ではないと思う。何かを被せるというそのことが本体を存在させることだから、これも欲するには及ばないはず。こんなに食い違うなんてなんか異様な見落としがあるような気がしてきた。

 

彼が彼自身であろうと欲するのは単なる強情の故にではなく、むしろ挑戦せんがためである。彼は自分の自己をそれを措定した力から強情に引き離そうと欲するのではなく、むしろ挑戦的にその力に迫り、それに自分を押しつけようと欲するのである。

―同121p 

 

なるほど。自分の抜けがわかった。「自己を措定した力」という措定に先行して自己があるなどと言ったら愚の骨頂にも程があるだろうか。しかし挑戦的なアプローチというのはいいものだ。力から逃げるのではなく力に向かっていく、それに自分を押しつけようとする。錯誤も甚だしいし、まるで精神倒錯の様相だけど、それが正しいし、それにだけ価値がある。

 

一体何かを弁護するということは常にそれの誤れる推薦である。

―同141p

 

これには唸った。きっとそうなんだよな。本当に弁護するだけの価値があるものは弁護する必要がないし、弁護しないとあかんものは弁護せなあかんものと認めることにもなってしまうから。それでも擁護しないといけないと思う。弁明だってしないとどうにもならないことになってしまう。その場合間違っているのは周囲なんだから、擁護するんじゃなく攻撃しないとって言うのはとてもよくわかる。観念的にはそうだと思う。でもそう一筋縄ではいかない。正直、一筋縄でいってほしくもない。誤れる推薦もそれが必要なときには必要だと思う。間違ってようが関係あらへんと言いながらでも。

 

・「ソクラテスソクラテスソクラテス!」

キェルケゴールソクラテスの名前を三度続けて呼ぶところはとくに感動的だった。本書を通じてもっともディープなインプレッションを受けたのもこの箇所だった。

必要なことをしないのは、邪気とかそういうのじゃなく、ただ必要だと理解してないってこと。それでも自分が理解してるとほざく奴らは単に剽軽者なんだとソクラテスが言うのはもっともだ、そういうふうに笑えるからオッケーってするやり方は厳格すぎないから助かる。と言った一瞬、キェルケゴールが和んだ様子を見せたような気がした。まあすぐもとに戻ったけど。

 

「注意して欲しい」というふうに、とくに注意を喚起する箇所がいくつかある。そうじゃなくても注意深く読まないと理解できないので、繰り返して読み返す必要がある本だと思う。二度繰り返して読んだだけで一回目とだいぶ景色が違った。

こんなふうに感想を書くほどきちんと読めてる自信はない。現状の理解をメモしておこうと思う。

「さらに奥に進むにはさらに注意深くあることが必要とされる」