黒田硫黄の漫画を読んで思ったこと
最近、黒田硫黄の漫画を立て続けに4冊読んだ。どれもこれもおもしろかった。近いうちに他のものも読みたい。
黒田硫黄の漫画を読んで思ったことをまとめておく。今の時点で思ったことだからほとんど印象に近い。またぞろ変わるかもしれない。しかしまた、変わることを期待してもいる。
黒田漫画は、つねにリラックスしている。普通ではリラックスできないような生死のことであったり人生の出来事に対して、つねに生活の一部と捉えているような感覚がある。
かといってプレーンというか平板というのでもなく、喜怒哀楽ははっきりしているし俯瞰して眺めるというのとも違っている。言ってみれば無常観、諦観という景色なんだけど、そういった言葉のイメージからは遠いような気もする。たぶん引かれた線が具体的というか個人的な響きを持っているからだろう。
台詞と絵とコマ割りで独特の調子を出していて、たとえば言葉だけの引用では引き出せない微妙な陰翳がある。はっきりと漫画ならではの表現だと思う。
言葉数少なでも異常に雄弁な一コマっていうのが随所に見られる。言葉で語る部分と画に語らせる部分とのバランス、双方の調和というのにはとにかく感心させられる。
モチーフははっきりしてるけど、それを言葉だけで述べようとするのは虚しいことだと思わせられる。この漫画を読んだあとでは、出立とか言ってみたところで始まらないとつくづく思う。磨き上げられた玉にたいして石ころで向かい合っているようなみっともない気分。洗練されたものの前に単語のゴツゴツとした感じがまざまざと意識させられる。
言葉はどんどん先鋭化するというか、ある種、工夫しようとすれば工夫しようとするほどシャープになっていくものだと思う。研ぎ澄まされていくという一方向にしか進まないものだと思う。根本的に。推すにしても敲くにしても。そういう観念的にグググッと進むところからフッと力を抜くのが、画とか、手書き文字とか、スペースをあけることでつくる時間だと思う。
言葉においてそういう研ぎ澄ませていく方向に邁進しながら、同時に、具体性というか自分で線を引くというルールを手放さないという、両方の性質が黒田硫黄の漫画には横溢しているように感じられる。
いい加減なところはどこにもないけどなぜかリラックスできるというのは、ひとえに人徳の成せるところである、と観ずることしきりなので、何とかその境地を1ミリでも一瞬でも手にできたら素晴らしいなと思う。
僕の場合は、いい加減なところばかりでそのくせすぐナーバスになるので、似ているようで大違い。まずはしっかりするようにするか、それともリラックスできるようにするか、まあ後者が先にするほうが適当だと思っている。そして、ここぞという時が来たらそのときはまたド緊張することだろう。これが僕の生活のパターンである。
大金星収録の「アンヘル」と、「あたらしい朝」がとくに好きだ。「トゥー・ヤング」のニコリも。