BARおくすり店長日記

BARおくすりの店長が日常思ったことを書きます。

ノリについて①

 

人間関係にとって大切なもののひとつに「ノリ」がある。ノリがあうかどうかというのは仲良くなるために外せないファクターだ。

ノリがあわない相手とはどこまでもしっくりいかない。ノリはアップテンポ系かおとなしい系かという二元論では判断できないもので、同じ傾向のなかでも反目しあうこともあれば全く違う傾向同士でも妙に馬が合うということもある。立場・性格・価値観が違っても仲良くやることはできるが、ノリが違うとあんまり仲良くやれない。もちろん立場・性格・価値観は似ている者同士の方が全く異なる者同士よりも仲良くやりやすいし、ノリもそれらが似ている者の間で一致しやすい。

「なんかノリがちがうんだよな」というのはかなり厳しい判定だ。このセリフは線引きが行われたあとのもので、そこから復活するのは相当むずかしい。キャラ変するぐらいじゃないとうまくいかない。もしくは思い切って環境を変えるか。いずれも大人の対処の仕方で、子供の間ではノリというのはよりシビアなものだ。たぶん個人でどうこうできるレベルを軽く超えている。ノリについていけない者の苦しみは大きく、ついていけなくなるのではという不安も際限がなく深い。そういうノリがあわない(あっていなさそうな)状況に対処できるようになるというのが大人になることで、抜本的でもっとも採用されているであろう解決は「大人同士は仲良くならないでもいい」というものだと思う。キャラ変も環境を変えることも、それができる人は限られている。職場の人間関係が固定的な人にとって周囲とノリがあわない場合に救いとなるのは「仲良くならないでもいい」という社会の共通理解だ。仕事ができればそれでいいのであって、子供のように周りと仲良くやらなければならないと強制されることがない。反対に仲良し集団のノリが一番ノリを重視する。仕事グループが集まる目的は働くためであり、仲良しグループが集まる目的は仲良くするためだから、ノリの重要性に差が出るのは当然のことだと思う。

ここではあえてノリを重視する立場で、ノリについて考えてみたい。ノリは日常生活にとってかなり重要なものであるにもかかわらず、感じられるばかりで考えられていないと思う。ノリに乗れている人はべつに考えなくても感じていればいいし、ノリに乗れていない人は無理に感じたり考えようとしなくてもいい、ノリを生み出す側の人は「ノリ」なんていう実体の無いものについて考えるほど暇じゃないだろうと思う。だからノリについて考えようとする人があまりいないのは頷ける。

でもノリについて考えられていいという流れは潜在しているのではないか。言葉で説明されて欲しいというニーズは高まっているような気がする。ノリに乗るというよりノリに流されているような人がじつは大多数なのではないか。流されるまでいかないでも仕方なく乗っているという人は相当数いそうだ。そういう中途半端なノリの人こそノリについて考えてみる必要があるのではないかと思う。

自分のことを言えば、何も考えないで乗れるノリが僕にはない。だからといって自分がノリに乗れていないとも思わない。ただ、せっかくノリに乗るからには「ノリノリになりたい!」と思う。そのための方法論を見つけ出したい。変調子するのがうまい、微妙なチューニングの感覚を身につけている人を手本にして、ノリをあわせるヒントを得たい。ノリノリの感覚というのは共鳴の大きさではなく精度に依るのではないかという気がしている。

それから、「なんだこのノリ・・・」とドン引きするようなノリとそうはならないノリ、いいノリとわるいノリの区別についてその境界線を探りたい。これは対応できるノリを増やしたいという野望に基づく。

でもまず「ノリ」とは何のことを指すのか、その意味内容を指定することから考え始めないといけないだろう。「ノリ」の語源は正確に定まってはおらず、その候補はいくつかある。次回はノリの語源からノリについて考えることを始めたい。

 

それはそうと「ウルフ・オブ・ウォールストリート」楽しみ。

最近よく見るディカプリオのこの感じすごく好き。

 


映画『ウルフ・オブ・ウォールストリート』特報 - YouTube