ノリについて②
何回も考えた。しかし①のあとには②が来る。
というわけでノリについて考えることを始めたい。
「ノリ」の語源について
カタカナ表記のノリにはいろいろな漢字を当てはめる余地があり、それによって感じがガラッとかわる。
海苔ー黒い。メインの白地を前提としている。
糊ー接着剤としての役割。外的な力によって接着させる必要があることの象徴でもある。
則ー規則。不文律のそれはとくに空気と呼ばれる。
祝ー祝(詞)。目に見えない力のプラスの側面。とくに「悪ノリ」と言わない限りいいものとして扱われる。
乗りー降りと対になっている。自動的に移動する空間。
NORIーNORIAKIの略称であり愛称。リアル追求の象徴。
ノシー初めて見てから今まで手を振っているように見えたことがない。どうしても「のし」と読んでしまう。しかしこの場合は誤記。
の利ー漁夫という言葉をど忘れしたが通用するコミュニケーション空間。
の理ー当然の理の理。円環の理の理ではない。
ノリー「ノリノリのようになろうよ」ノリノリのノリ。
よくがんばったと思う。はっきり言ってそういうノリじゃないのに書いた。ノリノリで考えたとは思われたくないけど、そう思われてもしょうがない部分はある。ノリとはそういうもので自分ひとりのテンションとは一致しないことがある。ウェーイ!
要点をまとめると、ざっと書いた上記の「ノリ」は当然語源でもなんでもない。なんでもないのだが「ノリ」からそれらを排除することはできない。これらのイメージの集積として「ノリ」がある。語源とは、一般に考えられているように一点に集約されるものではなく、源流を遡るにつれて拡散していくものだ。むしろ、集約された結果としてひとつの言葉がある。そう、川の流れのように。僕はそう思う。
哲学者も文学者も駄洒落にむかう。言葉の重要な機能に駄洒落があることの証だ。
井上ひさし(1934-2010)は、日本を代表する文学者の一人であり「堕洒落論」さえものしている。A=M=ダジャレ(1888‐1974)は、有名なフランスの哲学者であり、代表作「コミュニケーションは意思の疎通を度外視する」において国内の銀鷲賞を総なめしている。
何がしたいのか自分でもわからなくなるほど激しくブレるとき、人はニヒリズムに陥る。ニヒリズムは虚無であることだが、それは無力であることではない、無方向であることなのだ。人は、方向を失ったときにこそ自分が本当に無力であると感じる。したがって、重力、時間、川の流れ、方向を与えてくれるものはおしなべて尊い。その代償として不可塑的であるとしても、そのアンチになることさえできる。イヤミのひとつも言いたくなるが、ひとつと言わずイヤミを言うことができる。「いやぁとおとい」。
「ノリ」が乗りだとして、生活上いくつもあるノリを乗り換えるにはどうすればスムーズか、ということを次回に考える。と、予告してこの回は終わりたい。
そうなると「ノリ」と「ノリ」のあいだの「スペース」が気になるところ。ものすごく歩く駅もあったりするし。