BARおくすり店長日記

BARおくすりの店長が日常思ったことを書きます。

格調高い映画「裏切りのサーカス」の格調高さ

 

格調高い映画を見た。「裏切りのサーカス」という英国スパイ映画だ。

 

裏切りのサーカス コレクターズ・エディション [DVD]

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英国スパイといえばもちろんジェームズ・ボンドが主人公のシリーズ「007」が挙げられる。近作の「スカイフォール」は傑作だった。

裏切りのサーカスはより硬派なサスペンス映画だ。戦闘シーンをはじめ派手なシーンが一切ない。緊迫感はあるが、それにしても手に汗を握るというよりは、神経のキャパをセメントか何かドロリとしたものでじわじわ埋めていくような感じだ。

冷戦時代のイギリスが舞台。諜報部に二重スパイ(もぐら)がいる、もぐらはだれだ?というのがざっくりしたストーリー。

この映画は観客をおいてけぼりにするようなところがあって、そこがすばらしいと思う。全然親切じゃないんだけど、だからといって観客を煙に巻こうとするわけでもなく、表現として映画の意図を一貫させるのが潔い。余計なサービスがないからかえって寛いで見られる。その結果としておいてけぼりにされるんだけど、もう一回見れば問題ないとすぐに思える。そのときに余計なサービスがないのが活きる。自然にもう一回見たいと思わせる画面作り・雰囲気作り、細かい仕掛けなども素晴らしい。演出意図があざとく出てるものは再鑑賞に耐えないけれど、すべてがさりげなくなるように行き届いている演出のものは何度でも見られる。その意味で演出の演出がされている作品だといえる。そしてそういう映画は格調が高いといえるんじゃないか。格調高い=感覚重視だと思う。あっと驚く仕掛け、大どんでん返し、スリル、大迫力など、わかりやすく作られている反面一回見れば充分なもの、そういう理知的なひらめきではなく、絵画のように何度見てもいいと思える感覚を追求した映画が「格調高い映画」なんだと思う。こういうと芸術かと思われそうだけど、いわゆる「アート」みたいなものではなく、画面の構成や、音楽の入り方、かっこいい俳優、きれいな女優、テンポ感など、なんとなく感覚的に快感をもたらすような一々を見逃さない姿勢のことを格調と呼ぶんだと思う。それは高いに越したことはないし、いわゆるB級映画だから低いというものではない。「こういうのがかっこいいんだよな〜」と喜んで撮ってるのが伝わってきやすい分、むしろB級のほうに格調を感じる映画が多いかもしれない。ジャンルとしての「B級」はゴミだと思うけどそれはさておき。反対に、アートっぽい映画には格調を感じない。メッセージが強ければどれほど工夫されていても手段の一面が強調されるだけに終わるし、うまくメッセージを隠蔽できていたとしても「表現する」という目的がしっかりしすぎていてどうにもならない。アート扱いされたら映画は死ぬ。これは映画にかぎらず文学もそうだと思う。「あれはアートだから。」で終わらせられるナンセンス。そういうのに真剣に抗議しているのがいわゆる「現代アート」なんだと思う。正直僕にはよくわからないけど。でももっとわからないのは自ら芸術性のバッジをつけてもらおうとする人がいることで、もし僕が思う通りの事態が彼らの頭のなかで展開されているとすればいくらなんでもアホすぎる。夏目漱石の小説はちっとも芸術的じゃないし、小津安二郎の映画には芸術性の欠片もない、という意味での芸術性のことだから、便宜上使ってる芸術という言葉および言葉遣いを攻撃したいわけじゃない。言えば「格調高い」なんて言葉の方がよっぽど敬遠されそうなものだ。だからこそ選んだわけだけど。えらそうに取られたくないと勘案すること自体、どうしようもなくえらそうな態度なわけだけど、そうせざるをえない以上はいかにうまく隠蔽できるかということが最重要の課題になる。だから「格調高い」にはシンパシーを感じる。かっこいいの域から出ない。美にむかわない。かっこいいを突き詰めれば美学になるけどそれを好きでコーティングする。客観に明け渡さないで主観に終始する。「これが好きだから。」で終わらせる。

裏切りのサーカス」のラスト、曲がライブ音源でかかるのには本当にしびれた。でも俺にそういう特殊能力があるなら最後の最後のライブ音源だからこその「拍手」、これだけは消す。この映画は三回見たけど、三回ともそう思った。見るたびに感じ方が変わるような素晴らしい作りだけどあの「拍手」だけはないと思う。泥棒は仕事を遂げても拍手は受けない。