BARおくすり店長日記

BARおくすりの店長が日常思ったことを書きます。

幻の光を見た

 

幻の光を見たというと、なんとなくファンシーな気持ちになっているのかなーという感じがある。ファンシーな気持ちというよりはファンキーな気持ちで押して行きたいという願望があるのだが、ファンシーなのも否めない。最近はとくにそうだ。

映画「幻の光」を見た。「奇跡」「そして父になる」の是枝監督の長編デビュー作だ。主演江角マキコ宮本輝の同名小説を原作に持つ。

この映画の主人公は、夫に自殺される女の人だ。彼女は幼少の頃、おばあちゃんに失踪されるという過去も持っている。痴呆気味のおばあちゃんが「四国で死にたい、旅に出る」と繰り返し、どこかへ行ってしまおうとするという騒動が続き、孫のゆみ子はその都度引き止めていたのだが、ある日、引き止めきれないでおばあちゃんを行かせてしまう。おばあちゃんはそのまま行方不明になってしまう。

「なんであの時、引き止められへんかったんやろ」

その思いを抱えたまま大人になったゆみ子は、人との関係に不安を持っている。いつかいなくなってしまうんじゃないかと思い、いなくならないように、ずっと一緒にいられるようにと願いながら、相手にも自分にも不安を隠すようにつとめて明るく振る舞おうとする。

しかし結婚した相手は生後3ヶ月の赤ちゃんとゆみ子を残して鉄道自殺してしまう。気性の優しい夫の自殺は遺書もそれらしい兆候もなく、突然起こる。理由がわからないまま、引き止める機会もないまま、ゆみ子は取り残されてしまう。

 

これはおそろしい映画だと思った。こうやって話の流れを書いていくだけで背筋が冷える。大事な人がいなくなるということの恐怖がものすごく伝わる映画だった。おばあちゃんがいなくなってからゆみ子はそのことだけを怖れていて、その怖れがふたたび現実のものになってしまうのだからたまらない。爆弾が爆発する爆発するとおそれていて、恐怖がいや増しに増したところでおもむろに爆発するようなものだ。夫の自殺でゆみ子は最大限の恐怖を味わっている。これが映画の前半部分だ。

後半でゆみ子は石川県の海の見える集落に嫁ぐ。3ヶ月の赤ちゃんは5歳になっている。環境の変化と時間の経過によってゆみ子は立ち直ったかのように見える。少なくとも前半部分で見せた明るさを取り戻している。このあたりの明るい表情は見ていて胸を締め付けられた。本当にあわれであわれでしょうがなかった。この場面で無理をしているとは言わないまでも、ゆみ子がそう努めているということがはっきりする。おそらく前の夫の時にも同じように努めていたのだろうと推察できる。彼女の笑顔はとてもはかない。自殺した夫はそのはかなさに耐えかねたのかもしれない。そこには非常に残酷な因果関係が見られる。

嫁いだ先の新しい夫はゆみ子の先に立ってゆみ子を導く。自殺の理由を見つけられない彼女に、幻の光の話をする。漁師は沖に出て、海の光に魅せられることがあるという話。吸い寄せられるようにしてその光を追いかけて帰って来られなくなりそうになることがあるという。

「そういうのは誰にでもあるものやないん」

ゆみ子の抱えている暗い恐怖も、前の夫が吸い寄せられた幻の光も、たぶん誰にでもあるものなんだろうと思う。そうだからといって怖くなくなるわけでも消えるわけでもないけれど。そういうものはあると思ってやっていくしかないと思う。困ったときにはお互い様、導いたり導かれたりして。

 

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映画を見てひとこと

 

オール・ユー・ニード・イズ・キル(劇場)

  80点

意外とおもしろかった。と、思ったら監督がダグ・リーマンだった。ボーン・アイデンティティの監督。テンポが良くてノリやすかった。

 

ネブラスカ

  80点

アレクサンダー・ペインの新作。映画館で見なかったことを後悔してた作品。ファミリー・ツリーのような心ごと身を抉ってくる感じのドラマではなく、どっちかというとサイドウェイズのドラマに近い。でももっと淡白で、画面も白黒。現代的でかつローカルな風景をきっちり切り取っているんだけど、その方法で普遍的なところまで到達している感があってさすがだなーと思った。

 

十三人の刺客

  80点

日本映画にはめずらしい超大作。けっして雑ではないんだけどゴツゴツしててとてもいい。

 

ヒューゴの不思議な発明

  60点

ディケンズっぽい話。ディケンズの気分じゃなかったので個人的にはタイミングあわずという感じ。しかしこれのあとがウルフオブウォールストリートっていうのはなんとも感慨深い。

 

イノセント・ガーデン

  70点

ホラーとしていい雰囲気があった。こわかった。ただ脚本のせいなのか犠牲者がマヌケに見えてしまう。ホラー全般に言えることかもしれないけど。

 

・シンプルメン

  50点

TSUTAYAに推されて、NYが舞台ということで見てみたけど、あまりNYを感じなかった。90年代の作品だけどもはや化石のよう。画面が安いし古い。タイトルは好き。

 

それでも恋するバルセロナ

  70点

恋愛映画でこんなにサラサラしてるのってそれだけでコメディとして価値あると思うんだけどどうか。ただしウディ・アレン以外の男からするとホラーでもある。女はミステリー、とかいうけどこの映画見るかぎりではホラーじゃねえかと。

 

マレフィセント(劇場)

  65点

だれかの映画評論を耳に入れていたせいで物語的なサプライズが奪われてしまっていたけど、まあ面白かった。前半がとてもいい。翼を失う前の飛翔感覚が圧倒的。

 

もらとりあむタマ子

  70点

これも現代的でローカルな話でモチーフも親子なんだけど、ネブラスカと比べてみるとクオリティの差は大きい。まあ、かたやロードムービーかたや閉塞感の物語ではそもそもはじめから分が悪いわけだけど、取り組んだ以上はしょうがない。ただし人物描写は丁寧だったので印象はわるくない。

 

ディパーテッド

  80点

二回目だけど一回目映画館で見た時よりも余裕をもって楽しめた。そこそこ複雑で主演の二人のパッと見が似ているので初めて見た時には混乱したのかもしれない。映画の見始めぐらいのときに見たので展開の早さについていけなかったのもある。とくにクライマックスのテンポの良さは当時バタバタしてる感じに見えた。筋が分かってる状態で見るとネズミのドキドキハラハラが効果的に伝わってきて楽しめた。でも初回の少しキャパを超えてハラハラする感じっていうのもあれはあれで楽しかった。余裕はなかったけど。

 

・ゼログラビティ

  75点

13インチの画面で見てもしょうがないけど、映画館では吹き替えで見たのでジョージ・クルーニーの声を聞くつもりで見た。これを映画館以外の場所で見る人が気の毒でならない。

 

 

悪霊を再読した

 

ドストエフスキーの悪霊を読んだ。雑感を自分用のメモとして残しておこうと思う。

今回は再読になる。一度目に受けた印象と同じく、今回も暗い気持ちにさせられたが、一度目に受けた衝撃が二度目ということもあって幾分やわらげられた。

スタヴローギンの凄惨な内面を十分予期して読んだので、今回はわき役の登場人物に意識を集中することができた。

新潮文庫江川卓訳で読んだ。「スタヴローギンの告白」は二章のおわり三章の前に読んだ。

 

ドストエフスキーあるあるだと思うが、悪霊も物語の最初のほうは少したるい。さらに一章の主人公の位置にたつステパン氏はフランス語で話そうとする癖があってそれは江川訳ではカタカナ表記で表されるので、慣れないうちには読むのがつらい。しかし物語の終わりのほうにはそのカタカナ(フランス語)の効果があらわれることになるから、これは我慢して受け入れるべき関門なのだろう。あとは、人名が多いのと人物の呼称が単一ではないのとで、ぼうっと読んでいるとだれが喋っているのかわからなくなり、物語についていけなくなる。

魅力的な人物が話していても、彼が魅力的であることを理解できる箇所まではおとなしく、ほとんどつつましやかといってもいいような書きぶりで描かれているので、物語上の有象無象と区別がつかないまま読むはめになる。初読でその割りを食ったのは自分の場合はキリーロフだった。悪霊において彼ほど際立った人物はまたとないし、悪霊がドストエフスキー作品のなかでも際立った、したがって全小説の中でも際立った作品であることを思えば、すべての人間の中でキリーロフほどとんでもない人物は二人といないと言っても言い過ぎではないと思う。それにもかかわらず、自分は初読でキリーロフをほとんど見落としていた。ただただスタヴローギンのとんでもなさに目を奪われたのだった。

悪霊を読んで、ひとたびスタヴローギンに注目すれば、ほかに注目すべき人物はいないことになる。ハムレットという題の戯曲がハムレットその人を見せるためだけにあるようなもので、そのような見方はかなり強力なものだ。スタヴローギンの完璧さというのは向かい合う人物を無差別に不完全な存在として扱うことになる。実際には不完全もさまざまな色で塗り分けられ、いろいろな様相が呈されているのにもかかわらず、それらは十把一絡げに不完全として完璧なるものの背景に費やされてしまう。

もっともそうされるのは自然であり、むしろそうされて然るべきだという考えもある。完璧なるものを読み取ることはつよい満足をもたらすからだ。もちろん完璧なんてものは現実にはありえないが、ありえないからこそ要求されるのだ。この要求に応えてくれるものに心を奪われるというのも理の当然ではないかと自分は思う。

話はやや脱線するが、スタヴローギンには欠点がある。それは彼が教養と実践を兼ね備えながら、文章を書くとなると、ごく簡単な文法のあやまりを犯すことだ。だがそれは彼の完璧をすこしも貶めない。どころか、そのような取るに足らない欠点を持っていることが、かえって「欠点を全く持たないスタヴローギン」以上の完璧さを彼に与えているように感じられるのである。どうしてそのように感じられるのかはよくわからないが、これは感じとしてはかなり確かなところだ。おそらく彼のこだわりのなさがもっともこだわらない形で表されているからだろうか。

スタヴローギンがほかの誰よりも鋭敏な感情を持ちながら、それを向けるべき対象をもたず、何事にもこだわることができないでいるのは、その様子を細かな点にわたって見られるのは、自分にある霊感を与える。霊感というのはそれがなんなのか自分自身名前を付けることができないので適当に便宜的にそう言ってみたまでだが、今回の悪霊の読後感、読後感の第一声も「霊感が」だった。霊感が、のあとをどう受けるのかはわからなかったけれど。

話をもとに戻すと、再読した感想としては、「これほどまでにわきの登場人物が魅力的だったとは」と驚いた。

そもそも悪霊を再読しようと思ったのはキリーロフに萌えたからである。ツイッターに「Kirillov_bot」というアカウントがあり、自分のタイムラインにはキリーロフの発言が表示されるようになっている。彼の叫びは現実のタイムラインの上にあって不思議と心をなごませる。

 


Twitter / Kirillov_bot: ぼくは悪態をつきたい……ぼくは悪態をつきたい…… ...

 

これなどは本当におかしくて、文句なくベストツイートだと思う。

キリーロフbotで断片的にキリーロフの発言を追いかけているだけでは我慢できなくなり、それで悪霊を読もうと思った。

キリーロフに惹かれて悪霊を読むと、物語の見え方が違った。一番大きな違いとしては、有象無象の顔がよく見えるようになったことがある。二度目だから人物の名前を労せず識別できるようになっていたことも手伝って、キリーロフ、シャートフ、ピョートル、ステパン氏はもちろんのこと、リプーチン、シガリョフ、フェージカ、レビャートキン、レンプケ、ヴィルギンスキーなどのおっさんたちも、ワルワーラ夫人、リーザ、マリヤ、ダーリヤ、ユリヤ夫人などの婦人らも、生き生きとして魅力的に自分の目に映った。

キリーロフ以外ではとくにシャートフとステパン氏が好きになった。シャートフはキリーロフとの関係において魅力的だし、ステパン氏の世間知らずで地面から3ミリだけ浮いているような人物像は自分には好もしいものに感じられる。彼の最後の旅にはつい感動してしまった。

こういう読み方ができるようになったのはキリーロフを中心にした効果というより、スタヴローギンへの注目を弱めた結果だろうと思う。やはりスタヴローギンは悪霊の不動の中心なんだけど、それをドーナツの穴のように考えることで、周囲の人物を積極的に味わえるようになったのだと思う。

 

悪霊の登場人物はひとりスタヴローギンを除いて全員が豚だと思う。豚が競って我先に湖へと入っていこうとする様子は滑稽なものにちがいない。自分も豚の一人としてそれをあわれにも滑稽にも感じる。彼はそのように観じながらもそれを滑稽とも思わないのだろう。スタヴローギンは完璧だ。

 

 

悪霊 (上巻) (新潮文庫)

悪霊 (上巻) (新潮文庫)

 

 

 

悪霊 (下巻) (新潮文庫)

悪霊 (下巻) (新潮文庫)

 

 

最近見た映画たち

 

この7月に見た映画をまとめてみる。

 

 ・トランセンデンス

 

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見終わったときノーラン監督にしてはちょっとあれかなと思ったら、クリストファーは監督じゃなかった。やっぱりなと思った。クライマックスが中盤の「> Evelyn?」にある。テクノロジーを脅威として描きつつ悪意として描いてないのはよかった。

 

 

・渇き。

 

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これはエンタメとして最高級に属する映画だと思う。振り返ることなく前へ前へ、というのがこの映画の道徳心。唾を撒き散らす役所広司がかっこいい。それから、ちゃんと「痛み」を写し撮れている。

 

 

オールドボーイ

 

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リメイク版、ジョシュ・ハートネットの無駄遣い。もとのオールド・ボーイのほうが百倍おもしろい。映画は脚本じゃなくて演出だよなーと思わせられた。全然「痛く」ない。

 

 

・チョコレートドーナツ

 

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気に入らない映画。だけど投げ捨てるわけにはいかない映画。音楽に関してピアノのBGMは胸焼けしたけど自己紹介の歌はかっこいいと思った。引いて見る癖がある人にはもやもやする映画なんじゃないか。でもこのもやもや感が投げ捨てられないの素でもある。

 

 

・思い出のマーニー

 

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思い出の「思い出感」がよく出ているから文句なく成功作だと思う。幻想的な中盤がクライマックス。前半と後半をつなぐ鏡のような世界を起点にしてこの映画を見ると前半に比べてやや粗の目立つ後半にも納得がいく。ディスコミュニケーションというかコミュニケーション不全が好物の自分としては前半のアンナの感じとか、夢うつつのマーニーに人違いされるシーンがたまらんかった。しかし一番いいのは松嶋菜々子演じる「おばさん」。あれは宮﨑駿には描けない。

 

 

劇場で見たのは以上。

DVDで見たのは以下。

 

 

・映画「立候補」

 

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要するに「水を差す」ってことなんだけど、水のつもりじゃないのがいい(何のつもりかはわからない)。本筋からズレるけどモブキャラの暴力的な行動にふるえた。関心を持つ(けど考えない)人こわい。無関心バンザイ。馬鹿は通りすがってどうぞ。

 

 

アニー・ホール

 

やりたいことをやってるだけの映画っていうのは古びない。先端を横目でチラチラ見てるようなのはあっという間に古くなる。この映画がどっちなのかは確定的にあきらか。とにかく神経質でせこいんだけど癖になりそう。

 

ワンダフルライフ

 

うーーーーっ、わんだふる! この映画が今月のベスト掘り出し物でした。是枝ムービーの白眉。ということは邦画の白眉中の白眉。眉毛真っ白。

 

 

パコと魔法の絵本

 

騙されるもんか騙されないぞと思いながら騙されるんだからしょうがない。でも映画の最後は冷静でいさせてくれるのはえらいと思った。中島監督の道徳心(反骨心)は豊か。

 

 

・劇場版魔法少女まどか☆マギカ新編/叛逆の物語

 

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脚本にゴリ押しされた感は否めない。否めないけどもそれでおもしろかったのもまた否めない。二重否定による神の確保。「神は死んでない つづく」でしょうね。

 

 

・そして父になる

 

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もはや驚かない。是枝映画なんだもの。しかしもしこれが是枝監督作品じゃなかったとしたら心臓五回止まるぐらいの衝撃だろう。それから、心の痛みがイコール心臓の痛みだったら間違いなく死んでた。心臓が心じゃなくてよかった。ただ「お母さんをいじめるな」のシーンだけは浮いてる気がした。話の流れ的にとってつけた感がある。あるんだけど演出でカバーできてて、いや、カバーできてる以上の良いシーンになってる。あれは演出というか演技かな。福山雅治はじめてすごいと思った。

 

 

・ハイスクールミュージカル

 

さむいさむいと思って見てたけど最後の全員で踊るシーンではしっかりあつくなってるんだから苦笑した。

 

 

スカイフォール

 

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いやあかっこいい。映画館で見たけどついもう一回見たくなって見た。なんでもない話だけど見てて気持ちいいのはやっぱり貴重。

 

 

裏切りのサーカス

 

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これも2回め。正確には今回で3,4回め。何回見ても面白い。主人公がペラペラ喋らないで成立させてるのがすごい。むしろ喋らなさすぎなぐらい。この映画を1回見てオールオッケーするのはスマイリー、カーラぐらい優秀だと思う。

 

 

 

思い出のマーニーはとくにおすすめ。「月」好きのロマンチストには絶好の映画です。

 


エレファントカシマシ「今宵の月のように」 - YouTube

 

映画ワンダフルライフについて

 

ワンダフルライフという映画を見た。是枝監督の二本目の長編映画だ。

おもしろかった。

 

死んだ人が「むこう」へ行くまで一週間のモラトリアムを与えられ、自分の人生のなかでもっとも印象に残った出来事を選択する。それを映像化し、その瞬間の記憶を鮮明に蘇えらせ、その記憶だけを胸に「むこう」へ行く。

98年の映画だが、この手の設定は使い古されたものだ。だけどおもしろかった。

 

リアルとフィクションが交錯する場所を舞台に、人が人の記憶をフィルムに留めようとすること。そのこと自体が映画になっていた。

死んで施設にやってくる人たちは、自分の人生の瞬間を選択するために、人生のさまざまな出来事を職員に語る。聞き手となる職員はすべて有名な俳優なのだが、語り手の死者たちは俳優なのか一般人なのかわからない。そのため、だんだん本当に彼ら彼女らの人生を語っているように聞こえてくる。

監督が映画と人生に愛着を持っていて、その愛着がドキュメンタリーとフィクションのあわいを消している、そんな印象をシーンの端々から感じた。

「これは映画である」というメッセージは映画の中でいくつか登場するものの、だからといって語られたことの価値は少しも減りはしない。むしろ、それらのメッセージは映画が映画として堂々と成り立っていることを示していて、監督の映画への愛情が伝わってくる。ワンダフルライフがすばらしい映画になればなるほど、映画の中で語られるひとつひとつのエピソードも輝く、そういった確信が人生への愛着を感じさせる仕組みになっている。

人生の中でもっとも印象に残った瞬間をひとつだけ選択するというのは無茶な話だ。しかし一本の映画が映画として成り立つために最初にしているのがシーンを切り取るということで、観客もその切り取られたシーンの連なりから「人生のすばらしさ」を感じ取るということをごく自然にしている。

そういう瞬間というのはまさに映画を見ているのか人生を見ているのか不分明で、もはや自分が見ているということさえ意識しない境地にあるといえる。この映画を見ている時にも、映像を見ていながら心は記憶を追いかけている、そんな不思議な瞬間があった。

どんな人生に価値があって、どんな人生の瞬間を選択するのか、決めるのは監督でもなければ観客でもない。ワンダフルライフはそういう場所に立って作られた映画だ。正解なんかない。だからすばらしいと思った。

 

 

ワンダフルライフ [DVD]

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私は本気です

 

「リアル」が無条件に力を持つという状況に対して、僕は抵抗がある。

とはいえそんなものは宇宙の法則からすれば弱い抵抗、弱い嘘にすぎない。

わざわざ宇宙の法則を持ち出すまでもなく、うまくいかない現実を僕は認めたくないのだ。心理学でいうところの否認というやつだ。

そこで僕はみじめにもリアルから二重に殴られることになる。外的に打たれるバージョンと内側から自らの意見によって打たれるバージョンとだ。ゆるがせにできない現実とみじめな自意識。僕は悲劇のダンスを踊るしかなくなる。単に痛みにのたうち回っているだけなのだが、それをダンスと言い張ることによって辛うじて笑ってもらえるよう、表情を作る。

だから僕は他人の引きつった笑顔を見ると心がなごむ。仲間だと思う。

反対に、文句のつけようのない笑顔を見ても心が浮き立つ。仲間にしてほしい気がする。

 

こういう出発点をひそかに共有している人たちは、あるキーワードに対してとても敏感なものだ。そのキーワードは「死」だ。

レジスタンスというのは過激に流れやすい。うっかりするとすぐ極論を吐くハメになる。「死」について考えるというのも極まった考えだろうか。おそらく極まった考えなのだろう。個人から見た場合、その先は存在しないのだから。前進をよしとする価値観がもっとも忌むのは後退ではなくゴールだ。しかしあらゆる人間は死ぬ。それでも前進をよしとし続けるには、死をないものとするか、個人という立場を捨てるか、2つに1つしかない。

2つに1つとは、まさしく過激だ。僕は死ぬことになっている以上、前進をよしとするわけにはいかない。激しさを求めるなどは断じてできない。

リアルは過激すぎる。どうしても認められない。

アンチリアルに扮するのはリアルのフォロワーになるようなものだからそれはしない。

その代わり、あらゆる過激なものに僕は反対する。リアルの象徴としての過激さを僕は攻撃する。(本当のところは逆で、過激さの象徴としてリアルがあるのだとしてもそれは無視する)

「死」について考えることは過激か。そうではない。では「死について考える」と言うことは過激か。おそらくそうだ。僕は二度と「死」を口にすまい。

言葉を使うならば、少なくともどこかの何かに対しては誠実であらねばならない。いくら神経質だと言われようとも、すべての言葉に笑顔を混ぜないといけない。絶対に、死んでもそうしないといけない。

 

 

『Sunny』を読んだ。

 

松本大洋の『Sunny』を読んだ。

1〜3巻までは漫画喫茶か何かで既に読んでたんだけど、女の子から1巻をプレゼントしてもらって、それがきっかけでもう一度読んだ。今度は5巻まで一気に読んだ。

この『Sunny』という漫画はプレゼントに適していると思う。正直、女の子からのプレゼントってだけで何貰っても嬉しいものではあるんだけど、女の子からのプレゼントに漫画っていうのは意外で、しかも中身が『Sunny』っていうのはふさわしい感じもあって、その微妙なバランスがいいプレゼントの条件にジャストフィットしてる。

もし友だちの誰かが女の子に『Sunny』をプレゼントしてもらってたらそんなの絶対羨ましいに決まってるし。

裏を返すと、女子はプレゼントに『Sunny』の第1集を検討してみていいかもしれない。漫画でありながら画集のような趣もあるし、何より面白い。サブカルみたいなものが好きでも嫌いでも興味なくても、どんなタイプの人にも訴求力がある漫画だと思う。

僕なんかは単純だから、登場人物の子どもたちや大人たち、それぞれの想いにいちいち泣けるんだけど、泣けないという人もいるかもしれない。それでもその人だってつまらないとは思わないと思う。それというのも、登場人物の子どもたちと大人たちが完璧なぐらい丁寧に描かれていて、絵を見るような楽しみ方もできるからだ。それに泣けないという人の中にはあまりに真に迫りすぎていて泣けないという人もいるかもしれない。

とにかく心動かされる。胸につきあげるような【感情の原形質】の存在を感じる。

言葉にならないようなものを形にするというのはそれだけで素晴らしい尊敬に値することだと思う。しかもそれがとっても綺麗な形に切り取られているとしたら、そんなのは最高以外の何物でもない。

それが『Sunny』で、僕はそれを女の子にプレゼントしてもらった。

このことは客観的も主観的にも本当に価値のあることだと思う。自分で言うのもおかしいけど。

世の女子はぜひビレバンで『Sunny』を買って、そこらの男にプレゼントしてあげてほしい。あなた方は大きな価値を生むことができるし、もっと大げさに言えば、世界をよくすることができる。

しかも一番大事なことには、プレゼントされた男はあなたの名前を決して忘れないだろう。恋愛的にどうこうではなく(場合によってはどうこうかもしれないけど)、この漫画を誰かにプレゼントできる感覚が愛されるのは間違いない。少なくとも僕にとってこのプレゼントは嬉しい以上に嬉しかった。笑顔。

 

 

Sunny 第1集 (IKKI COMIX)

Sunny 第1集 (IKKI COMIX)