BARおくすり店長日記

BARおくすりの店長が日常思ったことを書きます。

悪霊を再読した

 

ドストエフスキーの悪霊を読んだ。雑感を自分用のメモとして残しておこうと思う。

今回は再読になる。一度目に受けた印象と同じく、今回も暗い気持ちにさせられたが、一度目に受けた衝撃が二度目ということもあって幾分やわらげられた。

スタヴローギンの凄惨な内面を十分予期して読んだので、今回はわき役の登場人物に意識を集中することができた。

新潮文庫江川卓訳で読んだ。「スタヴローギンの告白」は二章のおわり三章の前に読んだ。

 

ドストエフスキーあるあるだと思うが、悪霊も物語の最初のほうは少したるい。さらに一章の主人公の位置にたつステパン氏はフランス語で話そうとする癖があってそれは江川訳ではカタカナ表記で表されるので、慣れないうちには読むのがつらい。しかし物語の終わりのほうにはそのカタカナ(フランス語)の効果があらわれることになるから、これは我慢して受け入れるべき関門なのだろう。あとは、人名が多いのと人物の呼称が単一ではないのとで、ぼうっと読んでいるとだれが喋っているのかわからなくなり、物語についていけなくなる。

魅力的な人物が話していても、彼が魅力的であることを理解できる箇所まではおとなしく、ほとんどつつましやかといってもいいような書きぶりで描かれているので、物語上の有象無象と区別がつかないまま読むはめになる。初読でその割りを食ったのは自分の場合はキリーロフだった。悪霊において彼ほど際立った人物はまたとないし、悪霊がドストエフスキー作品のなかでも際立った、したがって全小説の中でも際立った作品であることを思えば、すべての人間の中でキリーロフほどとんでもない人物は二人といないと言っても言い過ぎではないと思う。それにもかかわらず、自分は初読でキリーロフをほとんど見落としていた。ただただスタヴローギンのとんでもなさに目を奪われたのだった。

悪霊を読んで、ひとたびスタヴローギンに注目すれば、ほかに注目すべき人物はいないことになる。ハムレットという題の戯曲がハムレットその人を見せるためだけにあるようなもので、そのような見方はかなり強力なものだ。スタヴローギンの完璧さというのは向かい合う人物を無差別に不完全な存在として扱うことになる。実際には不完全もさまざまな色で塗り分けられ、いろいろな様相が呈されているのにもかかわらず、それらは十把一絡げに不完全として完璧なるものの背景に費やされてしまう。

もっともそうされるのは自然であり、むしろそうされて然るべきだという考えもある。完璧なるものを読み取ることはつよい満足をもたらすからだ。もちろん完璧なんてものは現実にはありえないが、ありえないからこそ要求されるのだ。この要求に応えてくれるものに心を奪われるというのも理の当然ではないかと自分は思う。

話はやや脱線するが、スタヴローギンには欠点がある。それは彼が教養と実践を兼ね備えながら、文章を書くとなると、ごく簡単な文法のあやまりを犯すことだ。だがそれは彼の完璧をすこしも貶めない。どころか、そのような取るに足らない欠点を持っていることが、かえって「欠点を全く持たないスタヴローギン」以上の完璧さを彼に与えているように感じられるのである。どうしてそのように感じられるのかはよくわからないが、これは感じとしてはかなり確かなところだ。おそらく彼のこだわりのなさがもっともこだわらない形で表されているからだろうか。

スタヴローギンがほかの誰よりも鋭敏な感情を持ちながら、それを向けるべき対象をもたず、何事にもこだわることができないでいるのは、その様子を細かな点にわたって見られるのは、自分にある霊感を与える。霊感というのはそれがなんなのか自分自身名前を付けることができないので適当に便宜的にそう言ってみたまでだが、今回の悪霊の読後感、読後感の第一声も「霊感が」だった。霊感が、のあとをどう受けるのかはわからなかったけれど。

話をもとに戻すと、再読した感想としては、「これほどまでにわきの登場人物が魅力的だったとは」と驚いた。

そもそも悪霊を再読しようと思ったのはキリーロフに萌えたからである。ツイッターに「Kirillov_bot」というアカウントがあり、自分のタイムラインにはキリーロフの発言が表示されるようになっている。彼の叫びは現実のタイムラインの上にあって不思議と心をなごませる。

 


Twitter / Kirillov_bot: ぼくは悪態をつきたい……ぼくは悪態をつきたい…… ...

 

これなどは本当におかしくて、文句なくベストツイートだと思う。

キリーロフbotで断片的にキリーロフの発言を追いかけているだけでは我慢できなくなり、それで悪霊を読もうと思った。

キリーロフに惹かれて悪霊を読むと、物語の見え方が違った。一番大きな違いとしては、有象無象の顔がよく見えるようになったことがある。二度目だから人物の名前を労せず識別できるようになっていたことも手伝って、キリーロフ、シャートフ、ピョートル、ステパン氏はもちろんのこと、リプーチン、シガリョフ、フェージカ、レビャートキン、レンプケ、ヴィルギンスキーなどのおっさんたちも、ワルワーラ夫人、リーザ、マリヤ、ダーリヤ、ユリヤ夫人などの婦人らも、生き生きとして魅力的に自分の目に映った。

キリーロフ以外ではとくにシャートフとステパン氏が好きになった。シャートフはキリーロフとの関係において魅力的だし、ステパン氏の世間知らずで地面から3ミリだけ浮いているような人物像は自分には好もしいものに感じられる。彼の最後の旅にはつい感動してしまった。

こういう読み方ができるようになったのはキリーロフを中心にした効果というより、スタヴローギンへの注目を弱めた結果だろうと思う。やはりスタヴローギンは悪霊の不動の中心なんだけど、それをドーナツの穴のように考えることで、周囲の人物を積極的に味わえるようになったのだと思う。

 

悪霊の登場人物はひとりスタヴローギンを除いて全員が豚だと思う。豚が競って我先に湖へと入っていこうとする様子は滑稽なものにちがいない。自分も豚の一人としてそれをあわれにも滑稽にも感じる。彼はそのように観じながらもそれを滑稽とも思わないのだろう。スタヴローギンは完璧だ。

 

 

悪霊 (上巻) (新潮文庫)

悪霊 (上巻) (新潮文庫)

 

 

 

悪霊 (下巻) (新潮文庫)

悪霊 (下巻) (新潮文庫)