BARおくすり店長日記

BARおくすりの店長が日常思ったことを書きます。

私は本気です

 

「リアル」が無条件に力を持つという状況に対して、僕は抵抗がある。

とはいえそんなものは宇宙の法則からすれば弱い抵抗、弱い嘘にすぎない。

わざわざ宇宙の法則を持ち出すまでもなく、うまくいかない現実を僕は認めたくないのだ。心理学でいうところの否認というやつだ。

そこで僕はみじめにもリアルから二重に殴られることになる。外的に打たれるバージョンと内側から自らの意見によって打たれるバージョンとだ。ゆるがせにできない現実とみじめな自意識。僕は悲劇のダンスを踊るしかなくなる。単に痛みにのたうち回っているだけなのだが、それをダンスと言い張ることによって辛うじて笑ってもらえるよう、表情を作る。

だから僕は他人の引きつった笑顔を見ると心がなごむ。仲間だと思う。

反対に、文句のつけようのない笑顔を見ても心が浮き立つ。仲間にしてほしい気がする。

 

こういう出発点をひそかに共有している人たちは、あるキーワードに対してとても敏感なものだ。そのキーワードは「死」だ。

レジスタンスというのは過激に流れやすい。うっかりするとすぐ極論を吐くハメになる。「死」について考えるというのも極まった考えだろうか。おそらく極まった考えなのだろう。個人から見た場合、その先は存在しないのだから。前進をよしとする価値観がもっとも忌むのは後退ではなくゴールだ。しかしあらゆる人間は死ぬ。それでも前進をよしとし続けるには、死をないものとするか、個人という立場を捨てるか、2つに1つしかない。

2つに1つとは、まさしく過激だ。僕は死ぬことになっている以上、前進をよしとするわけにはいかない。激しさを求めるなどは断じてできない。

リアルは過激すぎる。どうしても認められない。

アンチリアルに扮するのはリアルのフォロワーになるようなものだからそれはしない。

その代わり、あらゆる過激なものに僕は反対する。リアルの象徴としての過激さを僕は攻撃する。(本当のところは逆で、過激さの象徴としてリアルがあるのだとしてもそれは無視する)

「死」について考えることは過激か。そうではない。では「死について考える」と言うことは過激か。おそらくそうだ。僕は二度と「死」を口にすまい。

言葉を使うならば、少なくともどこかの何かに対しては誠実であらねばならない。いくら神経質だと言われようとも、すべての言葉に笑顔を混ぜないといけない。絶対に、死んでもそうしないといけない。