映画ワンダフルライフについて
ワンダフルライフという映画を見た。是枝監督の二本目の長編映画だ。
おもしろかった。
死んだ人が「むこう」へ行くまで一週間のモラトリアムを与えられ、自分の人生のなかでもっとも印象に残った出来事を選択する。それを映像化し、その瞬間の記憶を鮮明に蘇えらせ、その記憶だけを胸に「むこう」へ行く。
98年の映画だが、この手の設定は使い古されたものだ。だけどおもしろかった。
リアルとフィクションが交錯する場所を舞台に、人が人の記憶をフィルムに留めようとすること。そのこと自体が映画になっていた。
死んで施設にやってくる人たちは、自分の人生の瞬間を選択するために、人生のさまざまな出来事を職員に語る。聞き手となる職員はすべて有名な俳優なのだが、語り手の死者たちは俳優なのか一般人なのかわからない。そのため、だんだん本当に彼ら彼女らの人生を語っているように聞こえてくる。
監督が映画と人生に愛着を持っていて、その愛着がドキュメンタリーとフィクションのあわいを消している、そんな印象をシーンの端々から感じた。
「これは映画である」というメッセージは映画の中でいくつか登場するものの、だからといって語られたことの価値は少しも減りはしない。むしろ、それらのメッセージは映画が映画として堂々と成り立っていることを示していて、監督の映画への愛情が伝わってくる。ワンダフルライフがすばらしい映画になればなるほど、映画の中で語られるひとつひとつのエピソードも輝く、そういった確信が人生への愛着を感じさせる仕組みになっている。
人生の中でもっとも印象に残った瞬間をひとつだけ選択するというのは無茶な話だ。しかし一本の映画が映画として成り立つために最初にしているのがシーンを切り取るということで、観客もその切り取られたシーンの連なりから「人生のすばらしさ」を感じ取るということをごく自然にしている。
そういう瞬間というのはまさに映画を見ているのか人生を見ているのか不分明で、もはや自分が見ているということさえ意識しない境地にあるといえる。この映画を見ている時にも、映像を見ていながら心は記憶を追いかけている、そんな不思議な瞬間があった。
どんな人生に価値があって、どんな人生の瞬間を選択するのか、決めるのは監督でもなければ観客でもない。ワンダフルライフはそういう場所に立って作られた映画だ。正解なんかない。だからすばらしいと思った。