BARおくすり店長日記

BARおくすりの店長が日常思ったことを書きます。

他人に興味を持つこと

 

僕の人生の目標のひとつに「他人に興味を持つこと」がある。

他人に興味を持とうとするというのは、一見したところ感心な態度のようでいてその実ナメた考え方である。たぶん他人に興味がある人というのはそんな目標を思いつきもしない。興味を持とうというのは、興味が持てないと言っているに等しい。

そう。何を隠そう、僕は他人に興味が持てないのだ。とはいえ、普段の生活上ではそんなことはごく自然に、ナチュラルに隠しているわけだけれど。

少し前、ある講演会に出席した時、現代の潮流に「自分の物語には過大な関心を寄せる一方で、他者の物語にはまるで興味が無い」ということが病的な傾向としてあると紹介されていた。僕は打たれたような思いで、その通りだ、自分は他者に興味が無い、とあらためて考えることになった。

その講演会の主題はべつのところにあったから、その問題はさらりと流された。でもその問題は僕のテーマでもあり、しばらくそのことについて考えた。

他者はなぜべつの他者に興味が持てるんだろう、ということである。

漱石の「私の個人主義」によると、自己が主であり他は賓であるという。僕はそれを読んだ時、その通りだ!と叫びたい気持ちになった。というのも、僕の中学・高校時代には「自己中」という言葉が流行って、自己を中心にしてものを考える態度が忌み嫌われていたことに内心で反感を持っていたからだ。自分さえ良ければ他はどうでもいいという考えが非難されるのはもっともだと思うけれど、自分を起点にして他人のことを考えざるを得ないというのは基本線だと思う。「自己中」という言葉を使う人たちがその線を平気で跨いでいるのが気になってしょうがなかった。

自分の物語には過大な関心を寄せる一方で、他者の物語にはまるで興味が無い」。こう言って非難する人にも似た感じがある。少なくとも、自己本位という基本中の基本を踏まえていれば、そのような言い方にはならないのではないかと思った。

「僕にとっての他者」というのは理解不可能な領域の謂である。その考えで言えば、「他者の物語に興味なし」は「未知・未見のものへの好奇心が欠如している」と言い換えることができる。講演会の司会者の人もこの言い方をしてくれれば僕のちょっとした反感は買わずに済んだろうに。でもそれで他者の物語に興味が無い問題が消えるわけではないからやっぱり言い方の問題はあまり関係ない。どう考えてみても、他者の物語が自分の物語に重なった瞬間、心が動く。

僕は理解可能なものについてしか考えることができない。そもそも理解不可能なものについて考えるというのは形容矛盾だ。

「理解不可能なものを理解しようとすること」僕の人生の目標はそのように言い換えることができる。なんだか話が変わってきたようだけどそんなふうに誤魔化しておく。自分の個人的な望みにわざわざ他人を持ち出して得意になるよりは、はるかにマシになったでしょうが!

 

…やっぱり他者は存在しないなあ。