BARおくすり店長日記

BARおくすりの店長が日常思ったことを書きます。

一流映画(断言)

 

ファッションショーの何が楽しいのか僕にはわからない。

新奇性というよりは珍奇性に見える流行の最先端、そのほとんどは下々の者達の元へ届く前に消滅しているように思う。カッティングエッジを極めた先に、刃に質量がなくなってもどこ吹く風、そんな姿勢はとてもイケてるように僕の目には映るけれど、あまりにどっしりしすぎていてファッションのイメージからは遠い。

「それファッションちゃう。パッションや」

 

人間が歩いているのに物語が見えないということに違和感を覚えるからかもしれない。ファッションショーは絵画を眺めるようにはいかない。人間が向かってきて、ターンして、帰っていく――、どうしても気になるし、自分のペースで眺めるということができない。

かといってそこに何かしらの物語を想像しようにもそれもうまくいかない。モデルの無表情という表情にどうしても注意が向いてしまう。ツンとして歩く姿は変な服を着せられて怒っているように見える。怒っているのなら怒っているで見世物にもなるだろうけど、怒りを抑えて取り澄ましているように見えて隙がない。こっち側でも怒りにうまく対応できない。

感情を抑えて歩くにしても、もう少し不完全な方が見ていて楽しい。こと「歩き」に関しては、駅前の雑踏からいろんな人が急ぐように歩いているのをスタバでコーヒーでも飲みながら見ているほうが断然楽しい。

おそらくファッションショーを見る作法が僕の身についていないんだろう。

「人は無視して服を見る」

これが正しい作法なんじゃないかと推測する。そうじゃなければ画一的なファッションモデルたちの説明がつかない。

 

一方、ファッション雑誌は見ていて楽しい。写真の中には情景が込められているから見るにやさしい。服装から生じる世界観を見て取りやすい。相変わらずモデルたちはキメているけれど、演じてくれてもいる。そういうサービス精神がうれしい。

服装が主役でありながら、目的ではなく手段である、そんな弁えがある。

すぐ手段と目的とを切り離そうとするのは二流の態度なんだろうけど、着晴らしには二流で充分。一流を目指す奴がえらくてそうじゃない奴はえらくないっていうのは考え方としてダサい、致命的にダサい。

でも逆に、一流がどんなものなのか全く気にもならない、なんていうのはやせ我慢か好奇心の欠如でしかないとも思う。一流がどんなものなのか、理解できる範囲内で知りたい。僕なんかはそう思う。

それには一流のひとの表現に接するのが一番だと思う。下々の者達にもわかりよく作ってくれている作品を探す。そういうものには手段とか目的とか、そんな小賢しい分類分けもないし、それでいて世界観がはっきり目に見える形で提供されているから理解に苦しむこともない。それに単純に目に楽しい。

そういう意味でトム・フォードの「シングルマン」は間違いなく一流の映画だ。と、断言してもいい。この映画は「孤独」を切り口に、ファッションの世界へと見るものを誘う。服装など身に付けるものだけではなく、60年代という時代、アメリカ西海岸という舞台、そういった情景をひとつのスタイルに仕立てあげている。コリン・ファースマシュー・グードニコラス・ホルトの極上のサービスも相俟って、何度でも見られる絵画作品のような映画になっている。

役に立つかどうかはともかく「一流」の座標を知っておきたいという人にはおすすめ。役に立つかどうかはともかく。

 

 

 

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