BARおくすり店長日記

BARおくすりの店長が日常思ったことを書きます。

:「実際」に向かって唾する :

 

はっきり言っておく。前置きはナシだ。

ぐにゃぐにゃでドロドロだと思っているものが、実際には、ふにゃふにゃでペラペラだというときの、「実際には」、僕はこれが憎い。

べつにふにゃふにゃでペラペラでもいいし、ぐにゃぐにゃでドロドロがそれよりもエラいなんて全然思わないけど、とにかく、実際にはこうだという決めつけが腹立たしいのだ。この怒りはしかし、話を少しややこしくする。ふにゃふにゃでペラペラでいいのならそんなふうに決めつけられたとしても気にすることなんかないじゃないか、と思われるからだ。じゃあ結局、僕は何に腹を立てているのか。そのことを深く考えてみる(…)とどうもふにゃふにゃでペラペラだと言われることがイヤらしい。「実際には」ふにゃふにゃでペラペラだったとしても、それをその通りに言われることにそこはかとない攻撃性を感じてしまうのだ。

言うというのは思うというのよりも強い。「実際には」なんて言ってくる人間の投げっぱなし感を見るのは注意力を要する。そのくせ退屈でつまらない。他人に義務を課しておいて恬然としている人間のキング感、でもそんなのはダウトダウトまたダウトで、説教たれやがる前に鼻水ふけよ汚いから、といったところだ。鼻水は重力にしたがって地面に垂れる。誰かがそれを拭いてくれるか、さもないと踏むか。どうしたって垂れる鼻水を見て見ぬふりをする自分を見るハメになる、誰かがそれを踏めば申し訳ない気分にもなる。

心に染まない使命感、これを奴隷の義務感という。そもそも関係においては片方が玉座に座ればもう一方は奴隷席だ。僕は玉座に座るのなんてまっぴらだけど、奴隷席はもっとイヤだ。「実際には」という言葉は玉座のようなもので、それに向かい合うものは実際ではなく、したがって踏み台のようなものにすぎない。こんなふうに実際にどうかということが無闇に尊重されているのを見るとイラつく。言うほうが聞くほうも当然同じように考えているだろうといった口ぶりを「実際には」に込めているのを見ると、僕はメラメラと復讐心を燃やすことになる。いつか鼻水が地面に着く前に蒸発させてやりたいものだと思う。ただ、復讐心という炎を吐き出していると思いつつ、実際には、啖か何かを切っているだけ、ということになりそうなので、僕は思うに留めることにする。それでも今この瞬間、きっとツバがとんだことだろう。わるいとは思うけどそれは各自で拭くように。

ホチキスホチキス。