BARおくすり店長日記

BARおくすりの店長が日常思ったことを書きます。

たぐいまれなる表現とそうじゃない表現

 

生活しているといろいろなことが起こる。しかしそのすべて、ほとんどすべてが書くほどのことではなく、瑣末であり、些細であり、ありふれている。

一瞬の映像というか、あとになってから振り返るとほとんどサブリミナル的な印象でしかない出来事で生活のすべてが成り立っている。

出来事はやさしい気持ちにさせられる出来事ととげとげしい気持ちにさせられる出来事の二種類に分けられるわけだけど、あとから振り返らないとどっちも取り立ててすごいことではないとして忘れていってしまう。たとえば自分の場合、ご飯は毎回おいしいけどきのう何を食べたのかさえはっきり思い出せない。気持ちいい気分にさせられる出来事は無数にあってそのおかげで生活することができてるのにその扱いはあまりよくない。よくないというのは言い過ぎにしても実績にふさわしくない、ようするにもっと評価されるべき。

そういうことを最近思うようになった。というのも自分は本を読んだり映画を見たりすること「たぐいまれなる表現」に接していることだけを自分の気持ちの上で優先してて、毎回起こることに対してはノーリアクションになっていたから。

つまらない歌を聞こうとは思わないけど、歌じゃなくても聞くべきことはたくさんある、という当たり前のことにたどりついた。今まではいつの間にか、知らず知らずのうちに、耳に入れることの全部をいい歌かそうじゃないかという基準で取捨選択していたように思う。

繰り返されることで価値が高まること。新し好きで飽き性の自分にはあんまり縁がなかったというか理解に苦しんだというか理解しようともしなかったところ。でも毎食毎食こだわっていくスタイルの友人がしていることはある種、自分が物の言い方にこだわってることに近いんだと思う。まあ、他人のこだわりは自分のと比べると冷淡にならざるを得ないし、おもしろくもないと思うことも正直少なくないんだけど。

ブランドバッグを持ちたい気持ちはたぶん一生理解できない。それはしょうがない。

でもそれで気分がよくなるというか晴れやかな気持ちになるという、その感情の部分だけは共感できる。ブランドバッグが「たぐいまれなるもの」として存在してることも理解できる。

自分がたぐいまれなると思う部分で他人と共感できるのはたぐいまれなる喜びにちがいない。ファン同士の交流なんかもそういう予感を持ってなされる。(そして大体が期待ほどじゃなかったと失望される。)

一方で、たぐいまれならざる部分での共感もある。ありふれたものとして看過されがちな、ちょっとした喜び。「感じのいい人」はそういう喜びを相手に与える。彼らは笑顔を伝染すのがうまい。

GUCCIだとかドストエフスキーだとかデビッド・リンチだとか、たぐいまれなる表現を前にしてはどうしても見劣りするそういう表現。表現というより印象・感じ。

そういうものこそ真実たぐいまれなるものだ、なんていう気持ちはないけど、そういう感じのいい感じってあるよなーと思った。

 

 

 

そして生活はつづく (文春文庫)

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