BARおくすり店長日記

BARおくすりの店長が日常思ったことを書きます。

ティエリ・アンリの現役引退について

先日、フランスのサッカー選手ティエリ・アンリが現役引退を発表した。

 

一番好きな映画は?と訊かれても、一番好きな本は?と訊かれても、即答することはむずかしい。好きな映画も本もたくさんあるからだ。そんな僕にとって、一番好きなサッカー選手は?という質問だけは一瞬も考えることなく即答できる。それが「ティエリ・アンリ」だった。

僕はサッカーというスポーツがスポーツの中でも格別好きだ。そのきっかけになったのがアンリだった。今では日本中がワールドカップに熱狂するなど、サッカー人気はとても大きなものになっているから、もしアンリと出会わなくても僕がサッカー好きになっていた可能性は大きい。実際、日本代表チーム「ザックJAPAN」にはアーセナルに対する愛着にも負けないぐらいの愛着があった。しかし、もしアンリとの出会いがなかったら、今サッカーが好きなようなサッカー好きではなかったのは間違いないだろうと思う。そういう意味でアンリは僕のサッカーファン生活の原点だといえる。

アンリを知ったきっかけはサッカーゲームだった。DFを置き去りにするスピード、シュートの異常な精度、パスを受けるトラップテクニック――、すべてのパラメータがほとんどMAXに近い選手だった。ゲーム初心者でもありサッカー初心者の当時の僕は「作戦アンリ」を実行して試合に勝っていった。「作戦アンリ」とはボールを手に入れたらとにかくアンリにパスを出してドリブル→シュートを繰り返すという作戦ともいえないような作戦だったが、それで点は獲れた。それほどそのサッカーゲームにおける「ティエリ・アンリ」はずば抜けた存在だった。サッカーの戦術を理解し始めて「作戦アンリ」を封印したあとになっても、どうしても一点がほしいときにはアンリにパスを出した。

そんなこんなでいつの間にかアーセナルのファンになり、無敗優勝を我が事のように誇りに思い、シーズンハイライトのDVDやアンリのゴール集のDVDを買ったりして、ますますアンリ=アーセナル=サッカーにのめり込んでいくうちに、ゲームの「作戦アンリ」が現実のサッカーの試合でも起こっていると知るようになった。

試合をハイライトではなくLIVEで見ると、次に起こる出来事は予測できない。誰がボールを持っても、シュートまで行けるかドリブルで相手を抜けるかパスを通せるかは未知数だ。それがLIVE観戦の醍醐味でもある。先がどうなるかわからないからこそ、一本のシュートに熱狂したり落胆したりする。だけどアンリは何かが違った。彼がボールを持ったときの、それを観ている感覚というのは不思議なもので、うまく説明できないのだが、LIVEで観ているのになぜか半分ハイライトのように見える。結果があらかじめわかっているような錯覚に陥る。アンリがドリブルで勝負を仕掛ける瞬間にはもう相手DFを抜いている”画”が見えたし、左斜め45度のアンリゾーンからシュートを放った瞬間にはボールがネットに吸い込まれていく様子が逆再生のように感じられた。ネットの内側、ボールのあるべきところに帰っていくようなシュートだった。そういうビジョンは僕の人並み優れた想像力の産物、だったらいいのだが、そんなことはなく、おそらくアーセナルファン(もしかすると相手チームファンも)全員が同じような見え方をしていたと思う。事実、アンリが前を向いてボールを持ったときのスタジアム全体が息を呑む雰囲気には独特なものがあった。「予感」を全員で共有し、身体が勝手に歓喜の準備を「完了」していた。しなやかに動く四肢、エレガントの域まで洗練された無駄のない動作、サイドネットに転がっていくボール、すべてがアンリ一人のコントロールのもとにあった。ゲームのアンリは少しも誇張ではなかった。「作戦アンリ」は実際に何試合もあった。

僕は今もサッカーが好きだ。アーセナルというチームが好きだ。しかしアンリがアーセナルから去った時、アーセナルが好きだという気持ちの半分も去って行ってしまった。

そしてアンリはサッカーから去った。今回も僕のサッカーが好きだという気持ちの半分は去って行くだろうか。アンリは僕のサッカーが好きだという気持ちの半分を持って行ってしまうだろうか。

 

映画の日に見た映画と今年見た映画ベストテン

 

映画の日に「寄生獣」と「オオカミは嘘をつく」を見た。

寄生獣」はまあまあ良かった。原作を100とすると1ぐらいはあったんじゃないか。ダメなところは完結編に続いたこと。このテンポで終わるのかなとは思ったけどまさか続くとはびっくりした。

 

「オオカミは嘘をつく」のほうは野心作で、そこそこ楽しめた。後半大きい音で驚かせてくるところはかえって鼻白んだけれど、生活のリズムというかコメディの領域と地続きの暴力描写は自分にとっては新しい映画体験という趣があっておもしろかった。

シュレディンガーの猫」っぽいモチーフがあってそのことで観客の関心を引っ張っていくけど細部がわりと甘くて二回目見たいとは思わない。

 

 

そして2014年のベストテン。

まずは2014年ベストテンのノミネート候補作品を選出。

条件はふたつ、①2014年に見た、②映画館で見た、映画作品。

 

2014年映画ベストテン ノミネート候補(見た順)

 

ウルフ・オブ・ウォールストリート

アナと雪の女王

それでも夜は明ける

ブルージャスミン

・インサイド・ルーウィン・デイヴィス

グランド・ブダペスト・ホテル

・渇き。

・思い出のマーニー

・プロミストランド

リスボンに誘われて

・ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー

・紙の月

インターステラー

 

 

次点

オール・ユー・ニード・イズ・キル

・TOKYO TRIBE

・ジャージー・ボーイズ

 

あと今年見に行く予定なのは、

「天才スピヴェット」「フューリー」「ゴーン・ガール」の三本。

 

こうやって並べてみると洋画のヒットが多い年だった。

次回、ランキング発表。乞うご期待。

2014年の邦画No.1「紙の月」を見た

 

吉田大八監督の「紙の月」を見た。

ネタバレに配慮しながら感想を書くという器用なことはできないし、見ていない人にとってもわかりやすく感想を書くということもしないので、映画を見た人にむけて感想文を書く、とはじめに断っておく。見ていない人に言いたいのはぜひ見に行ってほしいということに尽きる。人を選ぶ映画かもしれないけど映画好きならきっと選ばれるはずです。以下本文。

 

 

今年ナンバーワンの邦画になるだろうと予感していたが予感は見事的中した。とはいっても今年劇場で見た邦画は5本にも満たないぐらい少ないのであまり当てにはならないけれど。

 

紙の月

渇き。

思い出のマーニー

TOKYO TRIBE

小野寺の弟・小野寺の姉

まほろ駅前狂騒曲

 

良かった順に並べるとこんな感じになる。あきらかにダメだったのは「まほろ駅前狂騒曲」ぐらいであとは軒並み良作だった。「小野寺の弟・小野寺の姉」も微妙かな。

ただ全体的に小粒なのは否めない。テレビドラマ系の映画は嫌いなんだけど、それ系統じゃない映画がぜんぶミニシアター的な雰囲気で、このまま二極化していくと見ていても苦しいものがある。閉塞感というか。

「青天の霹靂」を見なかったのが今年一番の後悔なんだけど、テレビドラマ系ではない娯楽映画がもっと見たい。「渇き。」も「TOKYO TRIBE」もテレビドラマ系でもミニシアターでもないから良いはずなんだけど、なんか既視感があるし、フレッシュが足りない。はじめからゴールしちゃってる感じというか。はっきり言って「告白」「地獄でなぜ悪い」がすべてにおいて上回っている。そこと比べちゃうとどうしてもミニマル感。「思い出のマーニー」は新しくてフレッシュなんだけど再鑑賞にたえるほどの完成度は持てなかった。ジブリじゃなければ余裕で合格点でもジブリ映画となると及第点一歩手前という難しさはあるにしても、何回見てもいいものだと思いたいというのは譲れない。

 

「紙の月」が一番いいのは苦闘している感が出ているところだ。開き直りがないし潔くない、見ていてジリジリさせられる。対象をつきはなして撮るのが吉田大八フィルムの特徴だったはずなのに今作ではそれが完遂されていない。でもそこが、そここそがフレッシュだと思う。たとえば「桐島、部活やめるってよ」ではオープンエンド的に幕が下ろされた。でも今作は閉じた幕引きだった。異国のシーンでいかにも吉田監督というようなカメラ位置でのラストカット。一見オープンエンドのようで、あの現実感の無さはあれが夢であることを示している。あのシーンが白い暗転で区切られていることからも明らかだ。原作ではどうか知らないけど、少なくともあの映画の世界、90年代も半ばで、梨花が逃げ切れるとは思えない。現実のラストカットはあの走るシーンだ。カメラは梨花と並走している。あのシーンで終わればもっと潔い映画になっていたと思う。スッキリ見終われたと思う。でもそうしなかったところに吉田大八の面目躍如がある。正直、ありきたりさが目につくだけにバタついてるように感じさせるラストシーンだった。それでもあれはなくてはならないシーンだったと思う。

「紙の月」では吉田大八監督は各所へボールを投げている。気がつくところでは、脚本も共同脚本ではなく別の人に任せているし、隅との対決シーンでは女優二人に多くを委ねている。自分ひとりのコントロールを越えたものに賭けているのがわかる。そこが前作と一番ちがうところだと思う。結果、観客が目にするのはよくわからない軌道を描くよくわからないボールということになる。「桐島」では一気に4つ投げるからお好きなボールをキャッチしてくれというスタンスだったのが、「紙の月」ではこのわけのわからんボールを見てくれというスタンスに一変している。

映画を見るときに、相手の投げてきたボールをキャッチできたというところに嬉しさがあるとすれば、これはその喜びを無視するスタンスということになるだろうか。いや、ならない、むしろ尊重するスタンスだということになる。なんとなればわけのわからんボールをキャッチできた時の嬉しさは普通の時に百倍するだろうし、キャッチしてやるぞという意欲こそ映画を見る喜びの過半を占めるからである。

僕がこの映画でわからなかったのはスローモーション映像の多用である。あんなにスローモー重ねると吹き出してしまうと思うのだけど、あれは吹き出させたかったのかそうでないのか、気になるところだ。まあ、答えがどうあれもう吹き出してしまってるのでコメディ要素もあると理解している。サスペンスとコメディが奥のほうで混ざり合っている映画が自分は好きなのでそういうことならいいなと思って、そういうふうに見たのだった。

 

人に任せたからこその利点は予測不可能性の他にもある。クライマックスでの小林聡美宮沢りえの掛け合いは素晴らしかった。あのレベルの役者じゃないと成立しないというギリギリの会話を演じるのが役者冥利に尽きるのだとすれば、あのシーンは役者冥利に尽きまくっていたはずで、あの演技を見るためだけに1800円を払っても損はないと思う。

 


『紙の月』予告編 - YouTube

いっぱい映画を見た

 

10月からのひと月はいっぱい映画を見た。レンタル中心にだいたい30本ぐらい。

Filmarksというアプリがおすすめ。見た映画のログを簡単に残せる。

 

・映画館

猿の惑星ライジング、まほろ駅前狂騒曲、ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー

 

・レンタル

メリー・ポピンズショーン・オブ・ザ・デッド、清州会議、マンハッタン、箱入り息子の恋、シザーハンズ、あこがれ/大人は判ってくれない、ジエクストリームスキヤキ、オー・ブラザー!、デジャヴ、華氏451ウディ・アレンの誰でも知りたがっているくせに、レディ・キラーズ、恋の渦、サイドエフェクト、アラバマ物語、ムード・インディゴ、ビッグ・リボウスキグッドフェローズ、スーパー!、アメイジングスパイダーマン、HK変態仮面、バーバー、ミザリー

 

とくにおもしろかったのは

 

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー

シザーハンズ

ジ、エクストリーム、スキヤキ

サイドエフェクト

アラバマ物語

ムード・インディゴ

ビッグ・リボウスキ

グッドフェローズ

バーバー

 

 

逆に見なくてもいいと思った映画は

 

猿の惑星ライジング

まほろ駅前狂騒曲

清州会議

デジャヴ

華氏451

ウディ・アレンの誰でも知りたがているくせに…

アメイジングスパイダーマン

 

 

Filmarksは5点満点で、0.1点刻みで採点できるんだけど、上に並べたのは4.2点以上の映画。使い勝手もよくおすすめ。

https://filmarks.com/pc/ssksk101

 

 

NTLのハムレットを見た

 

ナショナルシアターライブの「ハムレット」を見た。

ローリー・キニア主演、ハイトナー演出。現代を舞台にした劇だった。上映時間は240分(うち休憩時間20分弱)とボリュームたっぷりで、シェイクスピアの戯曲を丁寧になぞっているところに好感をおぼえた。

しかし全体的にはあまり納得のいかない出来で、満足よりも不満の方が大きかった。これもNTLで見たサム・メンデスの「リア王」に比べると数段劣る。

以下に気に入らないところを列挙する。

 

 

・衣装がかっこよくない

まず、現代劇でかっこよく見せようと思うなら、どれだけスーツがビシッと決まるかに懸かっている。今作でいうとクローディアスのスーツ姿を見ただけで作品全体の格調を判断できる。そこさえ決まれば、あとはTシャツ、ジャージ姿とどれだけ崩していっても幅と捉えることができる。逆にスーツが決まらないと、全体にダラダラした格好という印象を拭えなくなる。ダラダラした格好は世界観さえダラダラしたものに見せる。今作がダラダラしていたというのは言い過ぎにしても、なんとなくタラっとしているような最終的にどこか締まらない感じを受けた。

 

・音楽がチープ

異化効果を狙っているつもりなのか、音楽や効果音にとってつけたような安っぽさがあった。あえてそういうふうにしているのかもしれないが、普通に「二流」だとしか感じられなかった。音楽以外が完璧に荘厳であったなら、おもしろい試みになったのかもしれない。でもそうじゃなかったので音楽にホームメイドを感じた。ナショナルシアターに手作り感はいらないと思う。

 

・キャスティング問題

名前を知っている俳優がいなかったので役名で言うが、ハムレット、オフィーリア、ガートルードはとくにダメだった。

ハムレットはハゲではいけない。*1 身長ももう少しほしい。*2 Tシャツ姿が主だとしても、スーツを着たらさぞ似合うだろうなと観客に思わせるような美形でないと。そもそもハムレット役がきちんとハムレットに見えなければ他のキャストだってどうしようもない。

オフィーリアもはっきり言って中途半端で、かるく攻めてる感じを出してみましたという風情がこざかしい。ハムレットの格に合わせるならこういうふうにせざるを得ないという悲哀を感じる。バリバリクラシカルなオフィーリアを用意してもハゲのハムレットには似合わないとなると、落とし所としてはベストを尽くしている感はある。そういう悲哀はいらないのだが。

ガートルードに関しては醜すぎる。あれではクローディアスが権利欲一辺倒の男にしか見えない。「弱きもの、それは女」というセリフをあのガートルードに対して投げたのではギャグ漫画にしか見えない。

こんな見え方の役者たちにGOを出した演出家の美的価値観はどうなっているのか、精神の美しさを讃える派なんだろうか。それにしては現代の監視社会における問題を扱っていると言ってみたり、社会に対して開いているアピールもつよく、雑な美観の持ち主としか思えない。

美しい・醜いは主観の問題なのであんまり言い過ぎるのもよくない、ほどほどにしておく。

 

 

フォローするわけではないが、ハムレットを上演すると絶対に文句が出るものだと思う。戯曲の完成度が高すぎ、読者が各々勝手に世界を作り上げてしまうから、彼らの頭のなかにある理想と比べて実際のものを貶すという流れに入りやすい。

だからといって、見る方はそういう事情を鑑み、いくらか割り引いて見ないといけない、とも思わない。作る方も文句がいくらでも湧いてくることを承知で作っているだろうし、ハムレットを演出したり、ハムレットに出演することがしたくて、これでどうだと思って作っているにちがいない。

上演された作品から気に入らないものといっしょに気に入るものをいくつか見出だせたならそれで結構満足もできるし、気に入らないところに文句を言うというのも含めてひとつの遊びになるのがハムレットだと思う。

文句を言う遊びは上に書いたとおり。

おっ、と思ったのは「ん〜ん、ん〜ん、ワーズ」というシーン。あと、ローリー・キニアはハゲだけど発音がものすごく綺麗で、ハムレットのセリフが明瞭な声で楽しめたのもよかった。中でも時間をたっぷり取って脚本に忠実だったのが今作の一番よかったところ。

結論としては、今作がもし朗読劇だったなら、満点とはいかないまでも満足間違いなしだったと思う。

いや、朗読劇にしても音楽が駄目か。ん〜ん、やっぱりハムレットはむずかしい。

 

 

*1:ハゲはわるくないと思うし誰がハゲでもべつに問題ないと思うけどハムレット王子だけはダメ絶対。

*2:身長なんてどうでもいいと思うし以下略。

上品な映画と下品な映画

 

最近、DVDでホット・ファズという映画を見た。イギリスのエリート警官が主人公のコメディだ。この映画はとてもおもしろかったのだが、上品なのか下品なのかでいうと、ちょっと判断しにくいところがある。映画をむりに上品か下品かで分ける必要もないのだが、自分が好きだと感じる映画には上品なものが多く、反対に嫌いだと思う映画は下品なものにあることが多いので、上品か下品かというのは自分にとって好き嫌いを見極めるための効果的な基準になる。上品に分類された映画はそのまま好きだと言っていいし、下品だと分類された映画はべつの基準に当てはめてみて好きか嫌いかを判断すればいい、ということになる。

最近映画館で見た「TOKYO TRIBE」「リスボンに誘われて」「ジャージー・ボーイズ」の3作品を例にあげて、上品/下品で分けるとすると、

 

TOKYO TRIBE 下品

リスボンに誘われて 上品

ジャージー・ボーイズ 上品

とりあえず第一感ではこんなふうに分類できると思う。ちなみにどれも好きな映画だった。

 

まず「TOKYO TRIBE」だが、この映画を上品だとか品があるという人はいないと思う。園子温映画にそんなものを求める方がどうかしている。逆張りの達人でもこればかりはできないだろう。黒を白という方がまだ簡単だと思う。でも僕が「上品こそ至高」という下品な趣味に走らないでいられるのはこういう映画があるからで、そういう意味では上品な映画だということはできるのではないか。いや、さすがに苦しい。それでも見方を変えれば上品とは言えなくても「けっして下品ではない」とは言える。それもギリギリ言えるというのではなくゆうゆうと言える。まあ、いくらゆうゆうと言ってもそんなの意味ないので、これは下品だと断言していい。そっちの方がサッパリしている。

 

つぎに「リスボンに誘われて」。この映画を上品に分類しない場合、上品な映画というカテゴリの作品は20を切るんじゃないかと思う。それは優れた審美眼というよりも行き過ぎた審美眼というもので、それはそれで上品とは思えない。そのためこの映画は自動的に上品な映画に分類されることになる。映画にかぎらず上品なものにはそういうところがある。勝手に、周囲の動きによって上品にさせられるというような。あたかもお姉ちゃんが勝手に応募したアイドルのように。では具体的にこの映画のどこが上品なのかというと、主人公が初老のメガネで、ヒロインがアラフォーの美人眼科医というところに端的に表われている。出会いは旅先で壊れたメガネを新調するというもの。思いつきの旅がリスボン行きの夜行列車に飛び乗るというところも洒落ている。何よりジェレミー・アイアンズのロマンスグレーは抜群の安定感がある。安心して見られること、ノイズが少ないこと、いずれも上品な映画の条件として大きい。

 

そして「ジャージー・ボーイズ」。イーストウッドは上品さというものに見向きもしない。そんなことに注意を払う必要がないからだ。その意味で園子音と似ているが、イーストウッドがちがうのは彼の撮ったものは自動的に上品さを帯びるということだ。本当のところは気にしているのかもしれないが、そんな素振りはまったく見えない。やっぱりジジイはすごい。ベタベタなストーリー展開を撮らせてもヒネった展開を撮らせても変わらない安定感がある。「ジャージー・ボーイズ」はミュージカルで、これまでのイーストウッド映画にはない手法がいくつか用いられているが、付け焼き刃の感じは一切ない。中盤の歌うシーンがタルかったのと照明がテカテカしているという問題点もあったけど、それは上品下品というより個人的な好みの問題かと思わせられるぐらい、イーストウッドの権威は絶大だ。ラストの盛り上げがすごかったのでそんな些事に目を向けさせない力業もすごい。正しくミュージカルだという気がする。主人公の歌声が好きになれないというミュージカルにとっては致命的ともいえる感想をもって見ていた僕にも、最終的にとても面白かったという感想を抱かせるにいたった延命術がすごい。少しでもノイズが入れば完全に途切れていた集中を途切れさせなかったのは隅々まで行き届いた品だったと思う。当然「イーストウッド映画」という安心感もあったけど。

 

ここまで3作品を通して映画の上品/下品を考えてきて、そのふたつを分けているのは詰められているかどうかだといえる。映画というのはひとつの箱で、中身がきちんと整理されているとより多くのものが入る。蓋を開けてみて、箱のサイズから想像したよりも多くのものが出てきたらそれだけで感心してしまう。入っているものがはるかに少ない場合も感心してしまうが、その感心は長続きしない。

ホット・ファズは理詰めで作られているから面白い。というより理詰めで作られていないコメディに面白いものなんかない。ようするに面白いコメディには必ず上品なところがある。その意味でホット・ファズは文句なく上品だし、TOKYO TRIBEもいくらか上品だといえる。

下品なところもあるけれど、そこには目をつぶるのが見る側に求められる上品さというものだ。

 

 

リルケの向こう側

 

「純粋な詩人」という単純ながらむずかしい言葉を担うことができるのは、ただ一人、リルケだと思う。

リルケは不純なものをしりぞけることをしなかった。彼だけが持っている特別なふるいにかけられて、そういったものは彼の言葉から自然にはなれていった。

 

この世に不純なものはいくらでもある。不純な詩人はいくらでもいる。リルケがそういったものをしりぞけずにいたところをみると、彼はべつの次元に立っていたのかもしれない、と疑ってしまう。リルケはこちらの世界の住人ではなく、あちらの世界の住人ではないのか、彼の純粋さはその故にすぎないのではないかと。色々なものを振り回すものたちをしりぞけずに平気でいられるのは、衝突のおそれが無いからだと思えば合点がいく。

 

こう言われるのを聞いて、はたしてリルケは不本意に思うだろうか。

僕は、リルケは不本意に思うだろうと思う。もちろん確信はないけれど。

 

 

今年見た映画の中でマイ・ベリー・ベストを一作挙げるなら「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」ということになる。一考の余地なく、ナンバーワンのひとつだ。

主人公のルーウィンはしがないフォークシンガー、1960年代のNYで灰色の生活を送っている。そんな彼のさえないながらも移動の多い2週間と、彼と行きずりになった茶トラの猫を、寓話めいたタッチでえがいている。

シリアスマン」という映画で「何をやってもうまくいかない人」を撮ったコーエン兄弟だったが、「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」ではややスケールアップ(?)して「どこかうまくいかない人」を撮っている。

人間を分解して分子よりも素粒子よりも小さい最小単位にすることができれば白黒はっきりすると聞いているが、ルーウィンに限ってはそれでもまだグレーなんじゃないだろうかと思わせるところがある。ルーウィンというのはとにかくずぶずぶの灰色野郎で、どこまで行っても煮え切らない。

通俗的なところがあってしかも迎合せず、空飛ぶような一瞬を持ちながら妥協に終始する。一思いにやめることもしないし、いつまでも続けるという決心もしない。「猫」のことが気になるのに気にせず、そうと言って、いくら気にしないようにしようとしても気になる。つねに同程度の力でもって反対方向に引っ張られているようなもので、そのためルーウィンは宙吊り状態から抜け出せない。彼に決定的なものは何もない。

でも決定的なものが何もないからこその詩がある。歌がある。

 

リルケがそういったものを認めないとは僕にはどうしても思えない。

彼は自分の内側に入っていけという。そこに詩があるという。正しいと思う。

だからといってリルケの向こう側にも詩があることは彼には止められないし、止めようとするはずもない。

そうであるなら、リルケが「純粋な詩人」であると言われることについて、いくばくかの不本意を感じるであろうことを期待してもかまわないということにはならないか。

 リルケはあちら側にいて純粋な詩人と言われたのではなかったと僕は思う。リルケのこちら側は僕たちにとってのこちら側で、リルケの向こう側は僕たちにとっての向こう側にちがいないと思う。

 

向こう側に行きたいと希うことが僕にとってはすでに詩であったりする。

もっと言うと、向こう側をイメージすることがもはや詩なのかもしれない。僕にとっては。

 

 

 


Fare Thee Well (Dink's Song) - Oscar Isaac ...

 

If I had wings like Noah’s dove
I’d fly the river to the one that I love
Fare three well, my honey fare three well
I had a man, who was long and tall
He moved his body like a cannon ball
Fare thee well, my honey, fare thee well
I remember one evening in the pouring rain
And in my heart there was an aching pain
Fare thee well, my honey, fare thee well
Muddy river runs muddy and wild
You can’t give a bloody for my unborn child
Fare thee well, my honey, fare thee well
Just as sure as the birds flying high above
Life ain’t worth living without the one you love
Fare thee well, my honey, fare thee well
Fare thee well, my honey, fare thee well